「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
人は、生きてゆくなかで、言葉に、じぶん自身の経験や社会的な意味合いをぬりこんでゆくのだということを思います。もちろん、「学ぶ」という言葉も例外ではありません。
じぶん自身の経験、それはたとえば両親や先生などの他者とともにつくってゆく経験でもありますが、「学ぶ」ということは、「じぶん」がつくられる段階からの経験であるため、じぶんが生きてきた環境やともに過ごしてきた人たちの影響を受けるものでもあります。
「学ぶ」ということをじぶんなりに定義する(できる)以前に、あるいはそもそも「学ぶ」という言葉以前に、「学ぶ」ということを経験として生きてきたわけです。
「じぶん」をつくってゆく段階で、「学ぶ」ということのあり方に疑問をもちながら、じぶんなりの「学ぶ」ということを考えてゆくこともできますが、じぶんの奥深くにまでしみこんだ経験のためか、また社会的な(周りの)影響からか、あまり考えずに大人になって、そのまま生きてきてしまうということもあります。
ぼくの経験としては、「学ぶ」ということのあり方にたいする疑問がどんどんどんどん大きくなっていったことから、その居心地の悪さが原動力になる仕方で、居心地の悪さをのりこえたくてもがいているうちに、いつしか、より広い海に出ていたというところだと思っています。
「学ぶ」は、ぼくの経験のうちに、試験やよい大学に入るためといった「何かのため」、それからそれをもっと時間的にひろげた「将来のため」、ということが、幾重にも幾重にも、ぬりこめられていたのでした。
ぼくの心身は、そんな「学ぶ」に、疑問を感じつづけてきたのです。
大学に入ってしばらくして、ぼくは、経済学者であった内田義彦(1913年~1989年)の本に出会います。岩波新書に収められている本で、たしか『読書と社会科学』という本だったと思います。
本を読むことで、社会をよみとく「眼」をつくってゆくこと。このことは、本を読み、学ぶことは「社会をよみとくため」ということでもあるのだけれど、それ以上に、ぼくは「学ぶ」こと自体の<楽しさ>をそこに見つけたのだと思います。
「~のため」ということと共に、それ自体で楽しいこと。つまり、「学ぶ」は手段的であるとと共に、あるいはそれ以上に、それ自体が、人が生きるということの本質なのだということ。
<学ぶ>ということは、「~のため」という理由が目的を必要としないままに、ほんとうは、学ぶことそのもののうちに歓びがあるということを、そのとき、ぼくは実感として、また意識的にわかりはじめたのだと思います。
「学ぶ」という言葉にどこか重い響きを聞きとってしまうのは、ひとつには、そこに「~のため」という功利的な考え方と経験があまりにも深く深くぬりこめられているからであると、ぼくは思っています。
「~のため」ということがいけないわけではありません。問題なのは、「学ぶ」を「~のため」へと、あまりにも狭めてしまっていること。だから、「学ぶ」を、もっともっとひろい空間に解き放ってゆくことが必要だということです。
でも、だからといって、「学ぶを楽しむべき」とやってしまうのはちがいます。楽しさや歓びは、強引に外側からつくるものではなく、内側からひらかれてゆくものです。
学ぶことを楽しむこと、そして学ぶことで成長すること。「~のため」という理由や目的の手前のところで、学ぶことや成長すること自体が歓びであること。
それは、どんな人にも、その生きることの核心に装填されている欲望である。そして、そのように解き放たれた「学ぶ」や「成長」ということが、これからの時代をひらいてゆく。ぼくはそう思います。