家の「片づけ」をする。
ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
タイトルに書いたように、「片づけ」を「済ましてしまう」という仕方はもったいない、と、ぼくは思う。
片づけは、ともすると、「さっさと済ましてしまうもの」と思われがちである。ほかにやることがいっぱいで、「さっさと済ましてしまう」ことができるのであれば、それに越したことがない、というのも、それはそれでひとつの見方でありあり方である。
けれども、たとえば、じぶんや人生を変えてゆこうとするとき、あるいはそのように意識はしていなくてもそのように心の奥のほうで望んでいるとき、「片づけ」を「済ましてしまう」のは、もったいないと思う。
片づけの「プロセス」そのものに、じぶんや人生を変えてゆくことの気づきやヒントなどが、いっぱいに、いっぱいにつまっているからだ。
片づけを「済ましてしまう」という仕方は、その言葉が語るように、片づけを完了した状態にプライオリティをおき、片づけの「プロセス」そのものを脱色してしまう。「プロセス」は、なるべく効率的なほうがいいとされる。
「プロセス」の効率性には、片づけそのものの効率性だけでなく、他の「ながら」行動を重ねることで時間の効率性を上げることも考慮されたりする。ぼくも以前はよくやっていたように、オーディオブックを聴きながら、片づけをすることで、一定の時間を二重に有効に使うことができる。
オーディオブックを聴きながらの片づけ自体が「悪い」と書いているわけではない。それがじぶんにとって「適切」なときもある。
そうではなく、片づけをしながら、「片づけ」を通して、オーディオブックを聴くのではなく、「じぶんの内面に耳をかたむける」ことで、じぶんや人生を変えてゆくときの気づきやヒントなどの「氷山の一角」にふれることができることを、体験として知っておきたい。
とかく、人は、「片づけを済ます」というように考えがちだからであり、また、「じぶん」と向きあうことをあらゆる手段・方法で避けようとするからである。
「片づけ」は、そのあり方によって、「片づけを済ます」片づけにもなるし、じぶんや人生を変えてゆく「プロセス」としての片づけとすることもできる。
ぼくは、この「プロセス」を、なるべく一歩一歩、たしかめながら、踏みしめているところである。