吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』。1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。
この『君たちはどう生きるか』に心を揺さぶられ、他の人たちがどんなふうにこの本を読んでいるのか気になっているときに、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)を目にし、手にとった。
最初の数ページを読んで、つづきが読みたくなったのだ。
というのも、それら最初の数ページには、思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の視点が刻まれていたからである。
鶴見俊輔は、『君たちはどう生きるか』について、「日本人の書いた哲学書として最も独創的なものの一つであろう」と評したという。1959年のことだ。
上原隆はこの言葉に導かれて、『君たちはどう生きるか』をすぐに読んだのだという。
上原隆が『君たちはどう生きるか』を初めて読んだのは、1981年、32歳のときだった。小さな記録映画製作会社で働いていたが、作りたい映画は作らせてもらえず、さらには経営状態も悪化している。
先行きが見えない不安のなかで、上原隆は鶴見俊輔の本を読み、ノートにとることで自分を支えていたのだという。そんなときに、『君たちはどう生きるか』についての、鶴見俊輔の書評に出会い、『君たちはどう生きるか』に導かれてゆく。
上原隆は、鶴見哲学の主要な問題のほとんどが『君たちはどう生きるか』の中にあるのだと見てとっている。著作『君たちはどう生きるかの哲学』は、鶴見哲学を補助線としながら『君たちはどう生きるか』に書かれていることを深めてゆくことを企図した本である。
『君たちはどう生きるか』に触発され、また今年は(少しずつだけれども)鶴見俊輔の著作を読んでいるぼくにとって、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』は、関心や焦点、さらには世界観のようなところで共振するものがあるのだと、手にとった本なのだ。
「はじめに」で、上原隆はつぎのように書く。
鶴見はこう書いている。
わたしは思想を、それぞれに人が自分の生活をすすめてゆくために考えるいっさいのこととして理解したい。
プラグマティズムと論理実証主義を学んだ鶴見は、論理的で実証的な手堅い哲学を背景に持ちながら、そこから出て、一人ひとりの「私」が生きる現場のことを考えた。自由意志を大切にし、正義の立場から批判することを嫌い、寛容さを大切にした。
一人ひとりの「私」が、様々なことと出会い、失敗し、後悔し、そこから意味をくみとって、成長していく。そこに哲学があると考えた。
文字通り、君たちはどう生きるかの哲学だ。上原隆『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書、2018年)
この箇所を読んで、ぼくは、上原隆の著作『君たちはどう生きるかの哲学』を読もうと思った。さらには、上原隆の他の著作も手にとって、ページをひらいた。
読み始めて、ぼくは思う。ぼくの感覚はまちがってはいなかった、と。