ロボット工学者の石黒浩は、著書『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』の冒頭に、一見すると大胆に聞こえることを言ってのけている。
「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」
多少極端な言い方ではあるが、それほど的を外しているとは思わない。実際に自分にいくら問いかけても、自分の心とは何かはなかなか理解できるものではない。一方で他人を見ていて、その人の心の方が自分の心よりも理解できると思うこともある。
…内部から自分を見ているときよりも、外から他人の様子を見ているときの方が、「心の存在」を感じることができるのである。…
石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
一見して、ある種の「反発」のような感情を抱く人もいるかもしれない。解剖学者(いわゆる「解剖学者」の枠をとびこえているけれど)の養老孟司があるところで述べているように、「心」を特別視してしまうようなところが人にはあるから、「心がない」という言い方は反発をひきおこしてしまう。昔のぼくであれば、反感を持っただろう。
けれども、養老孟司による「唯脳論」にふれてきたこともあって、脳と心の関係性を「構造と機能」と捉える視点で中和化されているぼくは、冷静に石黒浩の論点に耳をすます。ふつうに見れば大胆な言明、「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、石黒はどこにぼくを連れていってくれるのだろうか。
石黒浩はつぎのように書いている。
そのようにして互いに心があると信じているのが人間であると思う。ゆえに、
「ロボットも心を持つことができる」
と私自身は考えている。
石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
「人間と関わるロボット」をモチーフにしてきた石黒浩と彼が創作してきたロボットたちを(YouTube動画などで)見ると、このような考え方は理解できる。そのうえでひとつ指摘しておきたいのは、「ゆえに…」と続く、論理の流れのおもしろさである。
「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、「ロボットも心を持つことができる」という地点への移行は、いわば論理の飛躍である。「ゆえに…」で、簡単につながるものではなく、むしろ、論理を反転させていくような重力をぼくは感じるのである。
なにはともあれ、このような圧倒的な重力が、石黒浩による果敢な挑戦を支えているのだ。
ところで、石黒浩は、「心とは何か」という問いにはこれ以上科学的に説明ができないかもしれないことを、この本の終わりのほうで述べている。現在のところ自然科学的に心を解き明かすことができないこと、したがってこの領域は学問的にはある種タブー化している状況を、かつて養老孟司は指摘していたが、そんな限界線を確認しつつ、石黒は<互いに心があると信じているのが人間>というところを土台にして「人間と関わるロボット」を追求しつづけている。
このような石黒浩の研究は、ぼくにとっての「定点観測」のひとつとして存在している。