「ただ生きる」ということ。それは、なんとなく生きていくというのではなく、むしろ、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。
このような「なんでもないこと」が、人が人として生きるうえでの<歓び>であることを、「人間ではない存在」を通して気づいてゆく。そんな気づきを誘発する装置として、例えば映画やドラマなどがある。
映画やドラマで「人間ではない存在」(たとえばエンジェル)が<人間になる/人として生きる>というようなストーリーが描かれることがある。映画『City of Angels』(1998年)でニコラス・ケージが演じるエンジェルがそんな存在であり、最近では、アメリカのテレビシリーズ『Lucifer』の登場人物たちが挙げられる。
「人間ではない存在」を軸として、<人間である>、<人として生きる>ということはどういう経験であるかを逆照射させてくれる装置だ。「人間ではない存在」が人として「ただ生きる」ことのひとつひとつのなかに、人でなければ経験できないものごとを鮮烈に体験してゆく。なんでもないような、ひとつひとつの出来事が、まるで奇跡のように体験されるのである。
このような「架空の存在」を方法とすることもひとつだけれども、それらとはまったく逆に、現実の「ロボット」という人間ではない存在から、「人間の生きる」ということに光をあてていくこともひとつである。
ロボット工学者の石黒浩は、工場などで使われるロボットではなく、「人間と関わるロボット」をモチーフとしてきた。人間が日常生活を営むなかで、人間のように作動するロボットである。
そのプロセスでは、「人間とは何か?」が問われる。
人間の日常は複雑そうに見えながらも、たとえば朝起きて、電車に乗って仕事場に行き、そこで人と話をしながら書類を作成するなどして、ふたたび電車に乗って家に帰ってくる、といったパターンをとりだしてみると、三つに分けられるのだと石黒は語る(石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』講談社現代新書、2012年)。
● 移動すること
● 人と関わり人と話をすること
● 決められた作業をすること
これらのなかで「移動すること」と「決められた作業をすること」は工場のロボットもするけれど、大きく異なるのは「人と関わり人と話をすること」となる。ここに石黒の関心も、ロボットの可能性も、それから難しさがある。難しいのは、工場のロボットは「目的」をもってタスクを遂行していくのに対し、人と関わるロボットは、予測不能な人間と関わってゆくことになるからだ。
「面白さ(関心)」と「可能性」、それから「難しさ」が、人間の予測不能性に関わることは、当たり前に聞こえるかもしれないけれど、<人間とは何か>という質問に対する応答の核心をつくところでもある。
石黒浩は、この研究についてつぎのように書いている。
…日常生活とは、人間が活動する場であり、そこで働くものはロボットでも人間でも、人間を意識する必要がある。すわなち、「人間と関わる機能」を作ることが、研究の中心的な課題になる。この研究を、人間とロボットの相互作用(ヒューマン–ロボットインターラクション)と呼ぶ。
この「人と関わるロボット」の研究開発のもっとも大きな特徴は、ロボットの開発と人間についての理解を同時に進めなければならないという点である。石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)
「人間ではない存在」、ここでは「人と関わるロボット」を通して、<人間とは何か>が追求されてゆく。本の副題が直接に示しているように、人を映す「鏡」として、ロボットが存在している。
「人と関わるロボット」や「人工知能」などはさしあたりテクノロジーの発展のなかに位置づけられるけれども、他方で、近代・現代を生きてきた人間がその豊かな生を追い求めながら、そのプロセスや先端で出会うことになる問いたち、<人間とは何か>、<人が生きるとは>などを入り口としてひらかれてきた分野かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。