思想家・武道家の内田樹の『日本辺境論』(新潮新書)というきわめてスリリングな本のなかで、内田樹は、師弟関係における「トイレ掃除」について書いている(「便所掃除がなぜ修業なのか」)。
弟子から見て「無意味だと思われる仕事」、たとえばトイレ掃除などを、師弟関係を師弟関係として発動させてゆくために、師は弟子にあたえる。一般に語られる話の形では、弟子は修業に直結するような、もっと有用なことを求めたくなる。師に向かってそんなことを頼むことはできない、というのがよくある形だけれど、なかには、師に向かって頼んでしまう、という展開の話もあるだろう。いずれにしと、師弟関係におけるトイレ掃除は、師弟関係を語る際によく語られてきたものである。
トイレ掃除そのものに「意味」を見出してゆくというように語られることもあるけれど、内田樹は、よりファンダメンタルに、「学び方」を学ぶ、ということへの道筋を見ている。
「もっと有用なことを…」という弟子ではなく、黙々とトイレ掃除をする弟子には「感情」の変化がやがておとずれる。その変化のうつりゆきは、態度と感情の矛盾のなかで、「無意味なこと」をしている自分を合理化しようとする、心の安定化作用のうちに見て取られることになる。
黙々とトレイ掃除をする弟子は、つぎのような変化を経験していくことになると、内田樹は書いている。
…「…先生はあまりに偉大なので、そのふるまいが深遠すぎて、私には『意味』として察知されないだけである」というかなり無理のある推論にしがみつくようになります。「私は意味のあることをしている」という「正しさ」を立証するために、「私には何に意味があるのか、よくわかっていない」という「愚かさ」を論拠に引っ張り出す。おのれの無知と愚鈍を論拠にして、おのれを超える人間的境位の適法性を基礎づける。それが師弟関係において追い詰められた弟子が最後に採用する逆説的なソリューションなのです。
「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本文型です。
「学ぶ」とは何よりもまずその誓言をなすことです。そして、この誓言を口にしたとき、人は「学び方」を学んだことになります。…内田樹『日本辺境論』新潮新書
こうして「学び」の誓言をし、「学び方」を学んだものは、どんなものや人からも学びを引き出せるようになる。師から「何か」を学ぶということよりも、「学び方」を学ぶことで、弟子の学びの翼は飛翔する。翼を獲得することで、どこまでも飛んでゆくことができる。
トイレ掃除の「意味」ということにとどまらず、それよりもファンダメンタルな次元において、「学び方」を体得してゆく。このうつりゆきに、師弟関係における修業の本質がやどっている。
もちろん、今の時代はしかし、「無意味なこと」に不寛容なところをもちあわせているようだ。それがよいのかわるいのかということは簡単に言うことはできないけれど、「学びの信仰告白の基本文型」をどのように手にすることができるのか、ということは肝要なことであると、ぼくは思う。