伝統的な師弟関係における本質(のひとつの見方)について、自身が武道家でもある思想家の内田樹に依拠しながら、修業としての「トイレ掃除」ということのなかに見てとったブログ「「学び方」を学ぶこと。- 修業としての「トイレ掃除」の本質。」を昨日書いた。
このような形の師弟関係は、日本において「働く」ことのなかにも見られ、語られたりしてきた。現代においては、そのような関係性は見られなくなったり、有効ではないというように語られている。師弟関係ではなく、メンターやコーチなどという形態がすすめられたりする。これらに焦点をあててゆくだけでも興味深いことだけれども、ここではそこには入っていくことはしない。
けれども、伝統的な師弟関係が「働く」ことのなかにおりこまれてゆく仕方が、どのような日本文化(の特質)に支えられているのかについて、もうひとつべつの議論を重ねておきたい。
内田樹の「便所掃除がなぜ修業なのか」(『日本辺境論』新潮新書に所収)を読みながら伝統的な師弟関係の本質をかんがえ、ぼくがそこに重ねていたのは、山本七平(1921-1991)の『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)における、日本的な特質のことである。
山本七平は徳川時代の武士であり禅僧であった鈴木正三の思想に日本の資本主義に通じる精神を見ているが、「禅とエコノミック・アニマルは同じ発想から出ている」と書いている。1960年代、日本人は国際社会で「エコノミック・アニマル」と呼ばれるほどであったけれど、それと「禅」が同じ発想から出ているというのだ。
ここで言われる「同じ発想」がなんであるか、どのようなものであるか、おわかりだろうか。少し考えてみてほしい。
キーワードは、冒頭に挙げた「修業」に近いことばである「修行」である。
「禅」に興味をもつ外国の人に「禅」について質問されたとき、山本七平は、鈴木正三にふれながら、つぎのように応えたのだという。
…日本人が働くのは経済的行為ではなく、「仏業の外成作業有べからず。」と同じ、一切を禅的な修行でやっているにほかならない。農業即仏行であり、サラリーマン即仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼である。みなが、それによって、貪、瞋(しん)、痴の三毒から解放されて成仏するためにやっている…。
山本七平『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)※電子書籍版(PHP文庫)
山本七平のこの応答を聴いた人たちはたいへんに驚いたのだという。まさか、禅とエコノミック・アニマルが同じ発想から出ているなど、思ってもみないからである。
なお、エコノミック・アニマルにかかわる「利潤の追求」ということを支える考え方として、「利潤の追求は許されないが、結果としての利潤は肯定される」という鈴木正三の考え方が日本の底流に根強く残っていることを指摘している(1970年代の日本であるけれど、文化の根はそんなに変わるものではない)。
なお、山本七平は、近代・現代社会における「脱宗教体制」のことは織り込み済みである。今では資本主義の極致のように見えるアメリカについて、ピューリタンの面影はないというのが皮相な見方なら、日本にはすでに禅の面影が見られないのも皮相な見方であると明示している。
ちなみに、橋爪大三郎・大澤真幸は著書『アメリカ』(河出新書、2018年)で、アメリカの本質に光をあてるときに、まず押さえるべきは「キリスト教」だと語っている。キリスト教がなかったらアメリカは存在しない、と。いろいろと経験と学びを深めてゆくなかで、(「宗教」を学ぶことになるべく距離をおいてきた)ぼくも、そのことがようやくわかりはじめた。
ところで、農業も、仕事も、働くことも、それら「世俗の行為を修行とすることで宗教的行為となりうる」といった考え方が、日本人に大きい影響を与えてきたことを、山本七平は強調している。この考え方を反転させてゆくと、修行としての世俗の行為が高みに上がることで宗教否定的であり、また日本人は「無宗教」であるという見方になる(もちろん、だからといって<宗教性>をもたないということではない)。
なるほど、と思う。このような日本の社会では、「働かない」ということは仏行を行なっていないことであるから非難されるのだと、上述の議論からひきだされる興味深い状況例も、山本七平は挙げている(日本社会で「ブラブラしている」は、このようにして、非難的な言葉である)。
こんなふうにして、最初の「トイレ掃除」にもどると、その行為も、ひたすらに<修行的>なのだろう。
山本七平の著書『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』。今だからこそ、読まれるべき本であると、ぼくは思う。くりかえしになるけれど、海外で働く日本の人たちに、この本を勧めたい。山本七平自身が書いているように、「視点の提供」として。