著書『「空気」の研究』でよく知られている山本七平(1921-1991)の『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』(1979年)をとりあげて、ここのところブログを書いた。『日本資本主義の精神ーなぜ、一生懸命働くのか』のほかに、本のタイトルにひかれてぼくの「本棚」にならんでいる山本七平の著作に、『無所属の時間』(1978年)がある。
そのなかに「世間の目」というエッセイが収められている。山本七平は出版社を経営していたことはあまり知られていないのではないかと思われるけれど、その山本七平が出版をはじめたときに、本の箱の大メーカーT製函所の社長から言われた言葉からはじまるエッセイだ。
そのT製函所の社長は、山本七平につぎのように語る。
「ちょっと調子がよいと、世間は、実態の三倍も四倍も調子がよいと見るものですよ。そしてちょっと調子が悪いと、世間は、実態の三倍も四倍も調子が悪いと見るものですよ。そりゃ、世間がどう見ようと世間の勝手てことは、理屈としてはいえますよ。しかし案外自分のことは自分ではわからないもので、世間の目で自分を見てしまうことが多いんですよ。それが失敗のもと、問題はここですな。ここさえちゃんとわきまえていれば、大丈夫です」。…
山本七平「世間の目」『無所属の時間』(1978年)※PHP研究所、電子書籍版(2013年)を参照
経験と実感と振り返りから生成されてきた言葉であることが感じられ、ここには世界で生きてゆくための知恵がある。
理屈ではわかっていながら、どうしても「世間の目」で自分を見てしまう。自分のことは自分ではわからない、という迷宮にまよいこみながら。
「世間の目」ということで、山本七平はマスコミの報道がそれにあたること(また程度の差はあれそうであるしかないこと)を述べたあとで、「海外からわれわれを見る目」、および「われわれが海外を見る目」も同じであることへと、知恵を展開させる。
日本や日本社会を徹底的に見つめてきた山本七平ならではの「視点」が重なられるわけである(日本や日本社会を見つめるうえでは、時間的あるいは空間的に、べつの国や社会を思考にもちこむ必要がある)。
それにしても、阿部謹也(1935~2006)がかつて「世間とは何か」と問うたように、「世間」はそれだけで興味深いキーワードである。
山本七平は「ちゃんとわきまえる」方法についての質問を忘れない。「ちゃんとわきまえるには、どうしたらいいんですか」と山本七平が尋ねると、社長は、「簡単なことですよ」と言いながら、つぎのように応答されたのだという。「…一人におなんなさい。一人の時間をつくって、自分で自分のやっていることを、一つ一つ点検すりゃそれでいいんですよ。それだけですよ。」と。
それは聴いてみれば、たしかに「簡単なこと」でありながらも、「なるほど」とうなずかされる方法である。
そして、「一人の時間」をつくることができるか、また「一つ一つ点検する」ことがうまくいくかどうかは、もう一歩も二歩も先のことだとも思うのである。
「世間の目」は、ぼくたちの日常のさまざまなところにはいりこんでいて、この「自分」のなかにも内面化されている。一人になっても、「世間の目」は追いかけてくることもあるのだ。
だから、どのようにして「一人の時間」をもち、どのように「一つ一つ点検する」のかということも問われてくる。
その仕方はさまざまにあるだろうけれど、ぼくの経験と実感から言えば、「今いる空間」の外に出て、一人の時間をもち、異なる時間の流れのなかで「自分」の一つ一つを点検することが方法として挙げられる。端的に言えば、「異文化」の体験である。旅であれ、移住であれ、異なる文化の環境を、ぼくたちは豊饒に生かしてゆくことができる。ぼくはそう思う。