暦・時間にとりこまれず、味方につける。- 世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で。 / by Jun Nakajima

カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。

そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。

日本に暮らしていたときには、すっぽりと「日本的な暦・時間」の中にじぶんがおさまっていて、日本的な風習・行事を生活の区切りとしながら、そのような「暦・時間の構造」の中で生きていた。

お正月があり、4月の入学・入社・新しい会計年度のスタートがあり、お盆があり、年末がありという具合だ。

ひとたび海外に出てみて、その「時間の構造」が相対化されていく。

ここ香港では新年は「旧正月」を祝うことから、1月1日ではなく、旧暦にしたがい毎年日にちが変動する「旧正月」が生活や仕事の流れの中に、ぐいっと、はいりこんでくることになる。

シエラレオネや東ティモールなどでは、祝日の中には宗教的な日が選ばれたりすることから、生活の区切りも異なる。

シエラレオネや東ティモールにおいて国際NGOや国際機関で勤務している人たちは、それぞれ自身の「時間の構造」の中で動くから、日本にいたときのようにみんなが一斉に休むというより、それぞれの風習や文化に沿った暦・時間に沿って休暇をとったりする。

このような環境に長く身をおいていると、それまでの「日本的な暦・時間」の考えが相対化され、その感覚も解凍されていく。

そして、それでも「西暦」というものがひとまず、(お金という概念と同じように)世界の「協働連関」をつなげるものとして屹立していることに、驚きと感嘆をいだくことになる。

 

「相対化」されていくことで得たものと言えば、「暦・時間」はやはり人間がつくりだしたものだということの、実感である。

日本で暮らしていたときには、そのようなことは頭ではわかっていたのかもしれないけれど、「暦・時間」は絶対的なものとしてそこにあるように感覚されていたのだと、思う。

 

その実感を手にいれながら、ぼくは、「暦・時間」をあくまでもツールとして、ぼくの「味方」につけることへと方向転換をしてきた。

絶対的なものとしてじぶんに迫ってくる「暦・時間」ではなくて(もちろん「締め切りがせまってくる」ような状況はあるけれど)、ぼくの生活を豊饒化させていく手段として活用していくことである。

まったく自分勝手だけれど、いわゆる「新年」(1月1日)までにできなかったことは、「旧正月」をターゲットにして動く。

「Procrastination(先延ばし)」と言われればその通りなのだけれど、これは、あくまでもひとつの例として。

 

暦・時間に支配されることなく、逆に活用していくこと。

世界をつなげる協働連関のための「暦・時間」の「ありがたさ」をたしかめながら、しかし、じぶんの中や大切な他者たちとの間に流れる<時間>も取り戻し、生きてゆくこと。

外的な時間(「暦・時間」)と内的な時間(「じぶんの中や他者たちとの間に流れる<時間>」)を、それぞれに豊饒に生きてゆくこと。

世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で、ぼくが実感として獲得してきたことである。

それでも、ますます加速していく世界の中で、外的な時間は気がつけば、圧倒的な力でもって、ぼくたちの内的な時間に侵食してしまう。

その侵食をのりこえていくところに、今のところ、ぼくたちの生き方のスタイルと工夫がかけられている。