天頂から四方の青白い天末までいちめんはられた「インドラの網」(宮沢賢治)。- とても疲れているときに読む宮沢賢治。 / by Jun Nakajima


宮沢賢治の書いた短編の中に『インドラの網』という作品がある。

作品は、「私」が大へんひどく疲れていて倒れているところから、はじまる。

 

 そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていたのだとおもいます。
 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。
 そしてただひとり暗いこめももの敷物を踏んでチェラ高原をあるいて行きました。…

宮沢賢治『インドラの網』青空文庫

 

「私」はそうしてチェラ高原を歩きながら、やがて一人の天が翔けているのを見て、いつしか、人の世界のチェラ高原から「天の空間」にまぎれこんだことを知る。

ただ、まぎれこんだと思ったら、やはりチェラ高原にいることを知り、感官のゆらぎを感じることになる。

そのとき、ふと三人の天の子供らに出会い、その一人が空を指差して、叫ぶ。

 

 「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。…

宮沢賢治『インドラの網』青空文庫

 

「インドラの網」をたよりに、見田宗介は宮沢賢治という詩人の描いた「ありうる世界の構造」をよみとっている。

 

…インドラの網(因陀羅網)は、帝釈天(インドラ)の宮殿をおおうといわれる網である。この網の無数の結び目のひとつひとつに宝の珠があり、これらの珠のひとつひとつがまたそれぞれに、他のすべての珠とそれらの表面に映っているすべての珠とを明らかに映す。このようにしてすべての珠は、重々無尽に相映している。
 それは空間のかたちとしては、それぞれの<場所>がすべての世界を相互に包摂し映発し合う様式の模型でもあり、それは時間のかたちとしては、それぞれの<時>がすべての過去と未来とを、つまり永遠をその内に包む様式の模型でもあり、そして主体のかたちとしては、それぞれの<私>がすべての他者たちを、相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方の模型でもある。
 それは詩人が、<標本>と<模型>という想像力のメディアをとおして構築しようとこころみていた世界のかたちーありうる世界の構造の、それじたい色彩あざやかな模型のひとつに他ならなかった。

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店

 

インドラの網の無数の結び目のひとつひとつの珠は、ぼくにいっぱいにひろがる水玉を思い起こさせる。

水玉たちは相互に相映している。

ひとりの人のきらめきが、他の珠にも映されてゆき際限なくひろがっていくような、そしてそのような映り行きが幾億互に交錯しひかってゆく「世界のあり方」。

そのイメージが、「空間」と「時間」そして「主体(<私>)」というかたちとして、詩人のはてしない想像力が描く「ありうる世界の構造」の模型であったという読解は、ぼくたちの描く「世界のあり方」を豊かにしてくれる。

 

実を言うと、とても疲れているところで、いつものように(儀式のように)見田宗介の『宮沢賢治』を手に取って、それからこの「インドラの網」に目がとまり、この読解に心身をひたしてから、宮沢賢治の作品『インドラの網』をひらいた。

そうしたら、その冒頭を見ながら、あっと、ぼくは気づく。

『インドラの網』は、「大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れていた」私の、感官のはてにひろがってゆく話であったからだ。

疲れは、ときに、想像力がひらくあの次元に、人をはこんでもいく。

そんなことをかんがえながら、『インドラの網』という話に心身をひたしていたら、いくぶんか、疲れがとれたことを、ぼくは感じている。