「考えることの身体」について。- ロダン『考える人』は何を考えているか。 / by Jun Nakajima

世界で生きていく上では「考える力」が
大切である。
その土台としての「論理・ロジック」に
ついては、ぼくの「個人史」を書いた

そんなことを考えながら、本を読んで
いたら、
オーギュスト・ロダンの有名な彫刻、
『考える人』の面白い解釈に出会った。

ロダンの『考える人』は、おそらく、
多くの人が見たことがあると思う。
※ロダン「考える人」Wikipedia
前屈姿勢で、なにやら、真剣に物事を
考えている男がいる。

子供のころから、この「考える人」は
何を考えているのだろう、と思いつつ、
でもその真相を調べることまでの
気持ちはわいてこなかった。

直感的には、なにか、哲学的な深い
ことを考えているのだろうと、推測を
立てていた。

ただ単に、「美術」「ロダン」という
響きが「哲学」と結びついただけだった
のかもしれない。

社会学者の見田宗介の著作を、再度読み
直しているところで、
『定本 見田宗介著作集X:春風万里』
に収録されている、「野口晴哉」に
関する論考に、ロダンの「考える人」が
取り上げられているのを、見つけた。
以前も読んでいたのだろうけれど、
飛ばして読んでしまっていたのだろう。

見田宗介は、ロダン「考える人」が
何を考えているのか、に関する、
野口晴哉(整体の創始者)の考え方に
ふれている。

野口晴哉は、「考える人」の「姿勢」
から、読み取るのだ。

人間が考えるということには
「二つの様相」があるとした上で、
思考の内容に応じ、身体は正反対の姿勢
をとるという。

 

一方は「行動の思考」、現在から近い
将来の、具体的で実用的な思考である。
他方は「上空の思考」ともいうべきもの
で、楽しい空想とか、遥かな未来の想像、
過去の思い出や、高度の哲学的、理論的
な思考のように、現実の上空を飛翔する
思考である。「行動の思考」をする身体
は前屈し、全身を凝集して緊張している。
「上空の思考」をする身体は反対に上体
をそらせて、伸び伸びと弛緩している。
ロダンの彫刻は重心を前に移して、足の
親指に力が入り手も内側に入っている
から、具体的な行動のための、方法の案
出とか順序の問題を考えている身体である。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X:
春風万里』(岩波書店)

 

「身体」の視点から、ロダンの「考える人」
を視る、ということは、ぼくのパースペク
ティブにはなかった。

人の身体は多くを語ることは知りつつ、
ぼくたちは、「身体論」の教育を受けてきた
わけではない。
どちらかというと、教育の主眼は「心」に
投じられていた。

しかし、最近は、心と身体は切り離さない
「パースペクティブ」が、多く提示されて
きている。

「考える」ということを考えるとき
ぼくは、その身体のあり方を考える。
どのような「身体」で、ぼくらはよりよく
考えることができるのか、など。

「身体」は、人を変えていくための
ひとつの拠点だ。

「心身」という言い方もあれば、
「身心」という言い方もある。
心と身体が切り離せないという視点からは、
どちらも正しい。

心(マインド)から入っても、
身体(ボディ)から入っても、
ぼくたちは、自分たちを変えていくことが
できる。

しかし、ぼくが生きてきた時代は
どちらかというと「心」に重きを置かれて
きたように、思う。
「心の教育」ということの中で、
ぼくは「身体」を忘れてしまったのかも
しれない。
身体は忘れることができないのだけれど。

だから、自分を変えたいという思いを、
ぼくは「身体」を拠点にするという戦略に
うつしかえてきたのだと思う。

 

それにしても、
ロダン「考える人」は、
「地獄の門」の頂上で、いったい、
具体的なこととして、何を考えていたの
だろう。
そして、ロダンはなぜ「考える人」なんかを
創作したのだろう。

 

追伸:
西アフリカのシエラレオネで働いて
いるとき、
ぼくは夕方、事務所の前で、
しばしば、考え事にふけっていた。
(ぼくは安全対策の行き届いた
事務所に住んでいました。)

シエラレオネの「現実」の中で、
考え事が山積していた。
ある人は、ぼくが「哲学者のようで
あった」という。
今思い起こして、それは、
「行動の思考」であったのか、
「上空の思考」であったのか。
どちらかというと後者であったので
はないかと、ぼくは思う。
具体的な思考は、就業時間中に、
とことんしていたし、
何よりも、ぼくの「身体」は前屈と
いうよりは、上体をそらせて、
ひらかれていたから。

ぼくの身体は、シエラレオネの
空にむけられて、ひらかれていた。