整体の創始者といわれる野口晴哉。
野口晴哉の存在を知ったのは、いつだった
だろうか。
すでに20年以上前になると思う。
「自分を変える道ゆき」を探し求めていた
ときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。
野口晴哉は1976年に逝去したから、
もちろん、著書等を通じての出会いである。
当時は、ちくま文庫の『風邪の効用』など
にふれたことを、記憶している。
2007年に、ぼくは香港に来て、
人事労務のコンサルティングをしていく
ことになる。
「コンサルティング」という領域は、
学びと経験を深く積んでいけばいくほど、
質が高まっていくようなところがある。
自分のコンサルティングを磨いていく
なかで、香港で、ふとしたことから、
野口晴哉の書籍に「相談」したくなった
ことがあった。
「相談相手」は、野口晴哉の『治療の書」
である。
野口晴哉が「治療」を捨てた書である。
人間を丈夫にするためには「治療」では
駄目だと、野口が「転回」して独自の道を
つくっていくことの、画期的な書である。
ぼくは、この書籍を日本から取り寄せた。
ぼくも、コンサルタントとして、
問題が起きてからの「対処」よりも、
問題の「予防」により力を投じはじめて
いたときであったから、
この書は、ぼくの心に響いた。
『治療の書』と共に、日本から取り寄せた
野口晴哉の書の中に、『大絋小絋』がある。
この書が、ぼくの心をつかんだ。
この書は野口晴哉の草稿から取り出された
エッセイ集である。
このエッセイ集の最後に、
「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」
というエッセイが添えられている。
野口晴哉はクラシック音楽を愛していて、
特に「カザルスのバッハ組曲のレコード」
は、空襲による火事のときも持ち出すほど
であったという。
野口は、整体指導にもクラシックのレコー
ドを使用していた。
理由の一つは、
「自分の技術に時として迷いがでるから」
と、野口は書いている。
カザルスは、野口にとって「本物」であっ
た。
自分自身の技術を、この「本物」に負けな
いように磨いていくことを心がけていたと
いう。
野口晴哉はこのように書いている。
人間の体癖を修正したり、個人に適った体
の使い方を指導している私と音楽とは関係
なさそうだが、技術というものには、どん
な技術にも共通しているものがある。
カザルスは完成している。私は未完成であ
る。懸命に技術を磨いたが、五年たっても
十年たってもカザルスが私にのしかかる。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
当時、さっそく、ぼくはカザルスのバッハ
の組曲を手にいれて、聴いた。
海外に出るようになって、ぼくはクラシッ
ク音楽を聴くようになっていたが、
カザルスのバッハの組曲の「完成度」は
ぼくにも大きくのしかかってきた。
それからというもの、ぼくは、
このカザルスの音色に、何度も何度も
戻っては、自分の「技術」の未完成に
直面していた。
野口晴哉は、それから、カザルスを聴く
ことの中に、自分の「変化」を聴きとる。
…夢の中でも、カザルスは大きく、私は
小さかった。それが始めてカザルスの
音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザ
ルスが私にのしかからなくなった。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
この文章を書きながら、久しぶりに、
ぼくは、カザルスのバッハの組曲を
聴いている。
ぼくの中で「変化」はあるだろうかと。
カザルスは依然として、ぼくに、大きく
のしかかってくる。
カザルスの「完成度」が、ぼくの「未完
成度」を照らしている。
そして、それと同時に、ぼくの前に、
野口晴哉という「巨人」が立っている。
野口晴哉の文章が、ぼくにのしかかって
きている。
野口晴哉は、カザルスが自分にのしかから
なくなってからの感想として、
「うれしいが張り合いがなくなった」と、
綴っている。
ぼくは、野口晴哉とカザルス、そして
野口晴哉の存在を教えてくれた見田宗介
という「巨人たち」を前に、
「張り合い」を、自身にめぐらしている。