「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」。
思想家の鶴見俊輔は、かつて、こんなことを書いた。
「自分」という問題系を正面から考え始めたぼくが、出会った文章だ。
出会ったのは、もう20年ほど前のことだ。
鶴見は、このことをこんな文脈で書いた。
…能率的に先生の言うことをなるべく早く真似してやるという、機械に似せて自分を作りかえるということが、小学校から大学までの一貫した日本の教育の理想なんです。…だが、機械でできないことがあるんです。それは、自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見るということなんです。
鶴見俊輔『日常生活の思想』筑摩書房
ここでは「他者との関係」において、二層あることに注意したい。
- 「教育」という他者
- 「別の人間の視点」という他者
「教育」は、この社会のシステムで「よくやっていく・問題なくやっていく」ために、ぼくたちにインストールされる「他者」だ。
堀江貴文の著書『すべての教育は「洗脳」である』(光文社)では、そのことを「洗脳」と呼んでいる。
子供たちの身体はときに悲鳴をあげながら、しかし、インストールされた「他者」を「自分」として生きていく。
「自分を分割して…」と鶴見が言うとき、それは、もう一段上の「他者」である。
鶴見は、自分を分割しなければ、ほんとうは考えるということができない、という。
自分を分割して、「別の人間の視点」を組み込んでいく。
それは現代では、例えば、一段上の視点から見るという「メタ思考」などとも呼ばれる方法とも呼応する。
千葉雅也著『勉強の哲学-来たるべきバカのために』も、この「自分」ということにセンシティブな本である。
千葉は、「自分は環境のノリに乗っ取られている」や「自分とは、他者によって構築されたものである」という節で、「自分とは?」ということを書いている。
「来たるべきバカのための(深い)勉強」は、言ってみれば「教育などの他者」につくられた自分をこわし、「別の視点の人間」を組み込み、自分で「考えていくこと」である。
「別の人間の視点」は、日本の文化から離れたところでは、さらに鮮烈に組み込まれていくことになると、ぼくは考える。
ぼくは、海外で生活していくなかで、自分を分割しつづけ、別の人間の視点から見ることを、日々行ってきた。
文化などの差異が先鋭化し、「今自分のいるところ」と「別の人間の視点」の距離や角度が、さらに遠く、深く、鋭くなる。
例えば最近日本でよくとりあげられる「日本的な働き方」については、海外で生活し仕事をしてきたぼくにとっては、いつも「別の人間の視点」がぼくをまなざしてきた。
だから、「考えること」が多くなり、そして深くなる。
鶴見の文章と出会ってから、ぼくは、そんな自身の経験を通じて、鶴見が言おうとしていたことを理解している。
社会学者の見田宗介は、「鶴見俊輔」について書くなかで、鶴見と芹沢俊介との対談の発言から、こんなポイントを抽出している。
…鶴見は、「イノセント」からの出発ということで、一人一人が、自分の思想の、世界の見方の、生成してくる根にある経験を、けっして手放してはいけないということを、くり返し強調している。この経験の根のところから、人はだれでも、読むものを自分で選び、自分の「正解」を編み上げてゆくことが出来る…。
見田宗介『定本 見田宗介著作集X』
ぼくも、そう思う。
だから、ぼくは「経験の根」に自覚的に、そこから文章を編み上げていっている。