千葉雅也の著作『勉強の哲学』という本を、たまたまネットで目にして、さっそく手に入れて読む。
千葉雅也は哲学者。
彼は哲学者ドゥルーズに深く影響を受け、前著はドゥルーズについて書いた博士課程論文がベースになっているという。
この本をはじめに見たときに、気になったのは、3つのこと。
- 副題:「来たるべきバカのために」
- 本の帯:「東大・京大でいま1番読まれている本」
- 本の導入:「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである」
これらにふれながら、この本(とそのメッセージ)について、書こうと思う。
1)「来たるべきバカのために」
堀江貴文は「バカになれ」と、TEDのプレゼンテーションなどでメッセージを送っている。
もちろん、ここでいう「バカ」は、括弧付きの「バカ」である。
感情で読んではいけない言葉だ。
中途半端な利口さは、人から行動力を奪ってしまうことへの警鐘である。
そのことと呼応するように、千葉雅也は、3段階プロセスでの「変身」を、本書で展開している。
●第一段階:単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。
●第二段階:いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過。
●第三段階:来るべきバカに変身。
第一段階は、いわば、周りの「ノリ」に同調していく生き方である。
千葉雅也はこう述べている。
…「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、それは言ってみれば、「ノリが悪くなる」ことなのです。
深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである。…
…これから説明するのは、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って、「新しいノリ」に変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法です。
千葉雅也『勉強の哲学-来たるべきバカのために』(文藝春秋刊)
千葉は、そうして、第一章を「勉強とは、自己破壊である」という文章で書き始めている。
2)「東大・京大でいま1番読まれている本」
「勉強すること」を、今の大学生たちは、例えば、この本から学んでいるということ。
大学時代のことを、ぼくは思い起こす。
大学時代、勉強の仕方のようなところで、ぼくが感銘を受けた本は、例えば、経済学者である内田義彦の『読書と社会科学』や『社会認識の歩み』などであった。
岩波新書というコンパクトな本でありながら、深い言葉に、なんども立ち止まりながら考える。
学ぶということは、世界をみる見方を変えることということを、ぼくは内田義彦から学んだ。
現代という時代、ぼくたちは「私は私なんだ」と、自分に言い聞かせたりする。
「自分」というものを確かめながら。
でも、ぼくは、この「私」という現象自体に疑問をもち、その疑問と居心地の悪さに導かれながら、自我やエゴイズムの問題系を追求してきた。
社会学者の見田宗介=真木悠介は、この問題を追求していく際の、ぼくの「師」である。
千葉雅也も、この本で、「自分」ということにふれて、こんな風に書いている。
●「自分は環境のノリに乗っ取られている」
●「自分とは、他者によって構築されたものである」
これらが節のタイトルとしてつけられ、展開されている。
この本は、読みやすい言葉で語られている一方で、千葉雅也が言うように「深い勉強」の深い言葉が散りばめられている。
だから、この本自体を、どれだけ「深く」読むことができるのかが、かけられてもいる。
3)「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである」
「変身」という言葉が、ぼくは好きだ。
人が成長するなかで、人は「変身すること」がある。
勉強ということの本質のひとつを、千葉雅也は、わかりやすい言葉で伝えている。
「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである」
また、最近よく言われている「人生100年時代」のなかで、「変身」は確かにキーになってくる。
『The 100-Year Life』の著者リンダ・グラットン(Lynda Gratton)は、変身の大切さを、「Transformational Assets(変身資産)」という言葉で語っている。
3段階人生(学校ー>仕事ー>定年)が崩れてきているなかで、また世の中がさらにスピードを加速させながら変化を遂げているなかで、「変身できること」は、それ自体「資産」である。
NewsPicksは特集「人生100年時代の40歳サバイバル」という企画で、リンダ・グラットンにインタビューしたときの内容を振り返りながら、この「変身資産」に焦点をあてている。
千葉雅也が言うように、現代は「勉強のユートピア」である。
学ぶ環境が整っている。
映画『美女と野獣』の主人公ベルは、野獣が住む城で、書籍がいっぱいに並ぶ広大な部屋に、驚きと感動をおぼえる。
現代は、誰もが、この「広大な部屋」をもっている時代だ。
美女ベルと野獣は、本を一緒に読むことで、「自分」を壊し、心の距離を近づけ、それが最終的な「変身」を準備したのだとも言える。
なお、千葉雅也は「変身すべきだ」とは語っていない。
しかし、時代は、ぼくたちに「変身」を要請しているし、また人生は「深く」生きようとする過程で、自分をいったんなくし、変身をしていくのだと、ぼくは思う。