思想家の鶴見俊輔は、「好み」ということに触れて、「自分の存在全部を支える”好み”を自分が持っているか」ということが大切だと言う。
最近は「好き・嫌い」ということが、よく(しばしば過剰に)言われているなかで、鶴見俊輔の言葉は、重みをもって、表層的な「好み」に疑問をなげかける。
先日、鶴見俊輔の言葉をひろいだしている中で、「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」という言葉に再会した。
この言葉と、「自分の存在全部を支える”好み”を持つこと」は、一見すると関係ないようで、実は深く関係している。
鶴見俊輔は、こんな風に語っている。
…”好み”を持っていない人は、重心がなくて、世の中にふりまわされてしまいます。”超自我”に対抗して、自分で考える場を作っておくために、”好み”をもつことが必要です。
鶴見俊輔『日常生活の思想』筑摩書房
「超自我」という精神分析用語は「心的装置の下位構造の一つ」のことで、本能的欲求に対する禁止や脅しを行い、自我に罪悪感を生じさせる機能(良心)などを意味する(『社会学事典』弘文堂)。
鶴見は「世の中」と言っているが、それは、ある意味、日本の情況で言えば「世間の目」である。
鶴見俊輔の仕事は、いわゆる「権力」(広い意味での権力)にたいする「抵抗」をひとつのモチーフとしていたから、「考えることの拠点」について敏感な思想家であった。
人は、「大人」になるにつれて、「好み」が脱色され、うすれていく。
正邪、善悪や利害などに身を浸していくことで、いつのまにか、「好み」をなくしてしまう。
ただし、それらは、そのときどきで「変わりやすい」運命にある。
だから、それらの「変わりやすい」基準をもつ世の中に、垂直に立つために、存在全部を支える「好み」をもつことが、大切になる。
「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」ことも、「存在全部を支える好みをもつこと」も、考えることの拠点としてある。
ぼくにとっては、「世の中」の二つの解釈において、この言葉が大切である。
ひとつ目は、「世の中」は、グローバルに生きていくときの「世界」という文脈におきかえることである。
グローバルな世界を旅し、生活し、働き、そして生きていくことにおいて、存在全部を支えるような「好み」が大切だと、ぼくは思う。
日本で生活しているときは、「好み」があいまいであっても、あるいはほとんどなくても、それでもなんとかなってしまうようなところがあった。
日本の国外に出て、海外で生活していくなかで、ぼくは「日本的な感覚」をひきずってしまっていたようなところがある。
それは、「重心」を欠いたような生だ。
ふたつ目としては、「世の中」は、今と、これからの「時代」という文脈におきかえることである。
「時代」は、「存在全部を支える好み」を支えてくれるような時代に突入している。
しかし、時代の激しい変わり目・接ぎ目のなかで、表層的な「好き・嫌い」はあふれているけれど、「存在全部を支える好み」を拠点として次の時代に踏み出している人たちは、相対的には、まだ多くはない。
だから、鶴見俊輔の言葉は、ぼくにつきささってくる。
表層的な「好き・嫌い」があふれることに違和感を覚えながら、「自分の存在全部を支える好み」は、ぼくに言葉を与えてくれる。
「存在全部を支える好み」。
いい言葉である。
そして、ぼくは自分自身にたずねる。
ぼくは、自分の存在全部を支えるような好みを持っているだろうか、と。