ぼくたちの日常会話において、「性善説/性悪説」の言説があらわれることがある。
ビジネスやプライベートの人間関係のあらゆる文脈において、人それぞれに異なる解釈と感覚のもとで、「性善説/性悪説」が語られる。
「性善説」は中国の孟子により説かれ、その後、荀子によって「性悪説」が説かれたという。
現代においては、もともとの「説」と解釈が脱色されて、内容としては、いわば「性善/性悪」の部分のみが語られたりする。
人は、自身の生きられる切実な経験をもとに、論理的な根拠もなく、「自分は性善説(あるいは性悪説)を信じている」などと言う。
「日常の生きられる経験」は切実だから、語る相手にどうこう言うものではなかったりする。
ぼくはそのような会話に「出口」がないままに、しかし、問題への関心だけは失うことなく、学んできた。
ぼくが、この「性善説・性悪説」という問題に、自分なりの「ケリ」をつけることができたのは、真木悠介の名著『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店)を読んでからであった。
「性善/性悪」ということは、つきつめていくと、この書の副題にあるように「愛/エゴイズム」の問題にぶつかる。
言葉を変えると、「利他性/利己性」の問題である。
人間関係や社会の問題の多くも、つきつめてゆくと、ここに落ちてくる。
しかし、真木悠介の『自我の起原』は、「性善説・性悪説」に対して直截に答えるものではない。
…とりわけ明記されるべきことは、この探求が、人間の「本性」は利己的であるとか、利他的であるとかいった結論を引き出すためのものではないということだ。むしろ、現代の生物科学の進展の指し示している真にスリリングな展望は、この「利己/利他」という古来からの問題設定の地平自体を解体し、われわれの<自己>感覚の準拠をなしている「個体」という現象の、起原と存立の機制とを明るみに出してしまうということである。
真木悠介『自我の起原』(岩波書店)
真木悠介の方法論のひとつである<問題を裂開すること>を、倫理・道徳上で語られる「利己/利他」という解決できない問題に適用している。
そして、真木が指摘しているように、「現代の生物科学」の通路を通じて到達していることは、さらに明記されなければならない。
つまり、孟子や荀子が立てたような「性善説/性悪説」、あるいは人の「利他/利己」という問題の立て方自体を<裂開>すること、かつ、これまでの「倫理学・道徳などの通路」ではなく、「現代の生物科学」をつきつめてゆくことを方法としている。
この書には「世界の見方」を変えるようなポイントがいっぱいにつまっているけれど、結論的に述べるとすれば、ひとつには、人間という「個体」の利己性は絶対的なものではなく、生物のメカニズムのなかに、利己性を乗り越える契機があることである。
真木悠介は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」理論(ドーキンスの著作で有名になったが、生物学的にオーソドックスな理論)を徹底的につきつめていく中で、ドーキンスが到達した地点を論理的に乗り越えている。
ドーキンスは「遺伝子(生成子)レベルにおける利己性」と「個体レベルにおける利己性」を混同しているとし、「利己的な遺伝子」理論は、むしろ生物の個体レベルでの「利他性」の契機をもっている。
…つまり遺伝子の「自己複製」という論理は、個体水準の「利己性」を発現することもあるし、「利他性」を発現することもある。どちらにしても個体は「自己目的」でなく、つまり原的に「利己的」な存在ではなく、その外見上の「利己」「利他」を分岐して発現せしめる原的な動因自体は、個体にとっては他なるもの、個体というシステムの水準の外部に存在するものである。…
真木悠介『自我の起原』(岩波書店)
それから、この著書の二つ目に明記すべき結論は、世界は「誘惑の磁場」であるということ、また「カイロモン的な存在」ということ。
このことを、ドーキンスの「延長された表現型」理論から導き出している。
「延長された表現型」とは、遺伝子(生成子)の働きかける作用は、個体を超えて、他の個体を含む外界にまで及ぶということである。
ビーバーがつくるダムも、ビーバーの遺伝子の「表現型」というわけだ。
ダムなどのような環境だけでなく、他の生物の存在や行動ということもあり、他の生物の存在や行動を操作して活用する。
例えば、カッコウのヒナを育てるヨーロッパヨシキリという鳥の行動は、カッコウの遺伝子の「延長された表現型」とされる。
生成子が自分のサライである個体だけでなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている、という認識が、「延長された表現型」という卓抜な発想の理論的核心である。生成子が他の個体に働きかける最もすぐれた方法は、働きかけられる他個体が歓びをもって、すなわち能動的な「熱意」をもって、利他行為を行ってくれるように形成することであった。…
「延長された表現型」のコンセプトの帰結は、わたしたちの身体が<他者>たちのためにもまたつくられてあるということである。
真木悠介『自我の起原』(岩波書店)
遺伝子の「延長された表現型」ということの中に、個体の「利己性」を超える契機が存在している。
この議論の末に、真木悠介は、個体が個体に働きかける究極の仕方が「誘惑」である(他者に歓びを与えること)とし、同種だけではなく異種間をもつらぬく「誘惑の磁場」というコンセプトを提示している。
人間は動植物からも「誘惑」されており、この異種間の調和のさまざまな物質や現象という「カイロモン」を生きているという意味で、「カイロモン的存在」とされる。
真木悠介の名著『自我の起原』は、1993年の発刊から24年ほどが経過し、そしてぼくがこの書を手にとってからも17年ほどが経っている。
これほどに根源的な思考につらぬかれ、論理が徹底し「完成」され、そして美しい本を、ぼくは他に見たことがない。
ぼくにとっての「性善/性悪」「利他/利己」という問題を、思ってもみなかった仕方で「ケリ」をつけてくれた書であると共に、今も読むたびに、新たな開放感と気づきをぼくに与えてくれる。
現実の社会においては個体レベルでの「利他/利己」は人間社会の重層性によってさらに複雑な経路を通って発現してくるけれど、ぼくたちの内奥に、自己を裂開してしまう構造が装塡されていることに、ぼくは開放感を得る。
真木悠介自身が小さい頃から抱えてきた「エゴイズムの問題」をぼくも悩んできて、しかし、この書が切り拓く世界に、ぼくは解き放たれる。
そして、この書が切り拓いてみせてくれたことは、ますます大切になってきているし、「次なる時代」(安定平衡的な時代)の生きることの基礎となる論理とイメージを、確実に宿しているように、ぼくは思う。