米国メジャーリーグで活躍する野球選手イチローが、「説明できないといけない」ということを、北野武との対談における「理論」に関するトピックの中で語っている。
「説明できないといけない」のは、イチローが挙げる例で言えば、「ヒットを打ったときに、なぜそのヒットになったのか」ということの説明である。
興味を引くのは、イチローが説明ができるようになったのは、1999年以降のことであったということ。
当時はイチローは日本のプロ野球で活躍しているときで、すでに5年連続で首位打者であったけれども、その時点ではまだ説明ができなかったという。
それまで、ただただ「身体」で打っていたイチロー。
そのイチローが1999年以降に「理論」を自分自身で見つけ、2000年にアメリカの大リーグにうつる。
身体だけで打っていたら大リーグでの活躍はなかったかもしれない。
「頭脳」を使うことは、もう一段も二段も上の次元で活躍できる土台を、イチローに用意した。
このことが教えてくれるのは、第一に、「理論」の大切さである。
「理論」という言葉が重たければ、イチローの言うように、「説明できること」である。
身体で動くだけであれば、あるところで「天井」にぶつかってしまう。
「天井」をやぶって、一段も二段も上にいきたいのであれば、それは大切なことだ。
イチローは、この話の中で、さらに面白いことを言っている。
イチローにつくコーチは人それぞれに違うことを言ってくる。
それらにいちいちしたがっていたら、打てなくなってしまうという趣旨のことである。
「説明できること」により、いろいろに異なるアドバイスや指導の中であっても、「自分軸」をきっちりと持つことができたということだ。
第二に、技を使う職業において、説明できなくても「結果」が出ていればよい、ということにはならない。
イチローも、北野武も、若い頃は「ヒットを打てているからいいじゃないか」、「(コントを見に)お客さんが来ているからいいじゃないか」と思っていた。
そのような彼らが、技も、活躍も、それらの次元を上げていくときに、説明できること(=理論)を確実に味方につけていったのだ。
第三に、上記の二つのことは、日本を離れ「世界」に出ていくときには、さらに説明できることの意義を深めていったであろうことである。
日本という舞台でうまくいっていたことが、世界の舞台ではうまくいかなかったりする。
いろいろに異なる状況や事情があり、自分の「周囲」の声もいろいろだ。
そのような中で、説明できることを「軸」に、自分をつくり、そしてときに自分をのりこえていくことができる。
それは自分に固執するということではなく、オープンさ・柔軟さを兼ね備えた自分軸だ。
だから、冒頭で述べた通り、イチローが「説明できるようになった時期」と「大リーグ入りの時期」とがほぼ重なったことは、無関係ではない。
それにしても、本質的な生き方をしている人たちの会話は、気がつくと、生きることの本質に一気に射程を広げる。
イチローと北野武の、この「理論」の会話も、対談の冒頭近くに1分ほどで語られた内容だ。
ぼくは、聞き逃さないように、あるいは語られる言葉の地層に流れるエッセンスに、一所懸命に耳をすます。