香港のレストランで、ぼくの2度の推測をくつがえした「謎の白いモノ」(写真)に楽しんだ。
楽しむと共に、そのことにいろいろと考えさせられた。
ただ楽しんでいればよいものを、考えてしまうのはぼくの習慣だ。
中国料理のレストランでのこと。
まず席に案内され、席につくと同時に「何のお茶にするか」を聞かれ、「ジャスミン茶」を頼む。
それからメニューをながめ、料理は二種類注文する。
ひとつは「上海風焼きうどん」、もうひとつは「大きなスープとパフ米」であった。
それから、お手拭きを頼み、席でお茶を飲みながら、料理が来るのを待っていた。
そこで出てきたのが、写真の白いモノであった。
白い小さい皿に、謎の白いモノが載っていた。
ぼくの頭に最初に浮かんだのは、「キャンドル」か何か、というイメージであった。
「大きなスープ」を頼んだので、その小さな鍋か何かを温めておくための、小さなキャンドルか何か。
以前、同じレストランで頼んだ、小さな鍋のイメージが湧き上がったのだ。
その時は、小さな鍋の下にキャンドルが灯され、冷めないようになっていた。
そう思っていると、ウェイターの方が、手にもっていたお湯のポットで、その白いモノに少量のお湯を手際よくかけるのが見えた。
その白いモノは、お湯を受けて、膨らみはじめた。
それはマシュマロのようで、キャンドルではないと思ったぼくの頭に次に浮かんだのは、「大きなスープ」についてくる何らかの素材かな、ということだった。
乾燥したパフ米はスープの中に入れることになっていたから、その他にもスープとは別に運ばれてくる素材があると思ったのだ。
そう思っていると、その白いモノはさらに大きさを拡大しながら、その実態をあらわにし、ぼくを驚かせた。
それは、なんと、「お手拭き」だったのだ。
お手拭きは、プラスチック包装されたお手拭きがくるかと思っていたから、そのギャップはまったくのサプライズになった。
ぼくは、「二重の思い込み」をしていた。
一つ目は、「大きなスープ」のイメージに引っ張られ、白いモノはそれに関連するものだと思ってしまったこと。
二つ目は、お手拭きは(以前このレストランで出されたように)プラスチック包装のお手拭きだと思ってしまっていたこと。
(それからついでに言えば、お手拭きは「縦」向きには出されないと思っていた。)
人の意識というのは、日々のシミュレーションの集積のようなものであるから、「日々のシミュレーション」に引っ張られてしまう。
それにしても、日々のシミュレーションとしての思い込みは怖いなと思いつつ、だからこそ、いろいろな「サプライズ」があるのだとも考えてしまう。
人の世界は、さまざまな両義性の網の中にある。
それらは、人を困らせもするけれど、人を楽しませることもする。
サプライズやマジックはその間隙に生まれる。
ウェイターの方は、香港ならではの手際のよさで、「お手拭き」を提供する一連の作業をこなす。
あたかも、この一連の作業を楽しんでいるかのようであった。
2度の予想をはずしたぼくの前で、この「お手拭きのマジック」を知っていて、半分意図的にお手拭きを頼んだ妻は、ぼくの反応にたいして無邪気な笑いをなげかけていた。
香港のとあるレストランで、ぼくは「お手拭き」にマジックを見せられ、楽しまされ、そして教えられた。
直接的にそのお陰ということではないけれど、その後運ばれてきた料理は、期待していた以上においしかった。