ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。
修士論文は『開発と自由』と題し、途上国(と先進国)の発展を「自由」という観点から論じた。
大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていくことになる。
その現場で、「自由」あるいは「不自由」ということが、まるで、手に取ることのできるような仕方で、ぼくは感じてきた。
内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年に赴任する。
当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が結成され活動していて、その任務のひとつに平和維持や武装解除などがあり、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。
UNAMISILの影響もあって街は平和が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。
数々の対策を打ちながら、「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。
2003年に、ぼくは東ティモールにうつることになる。
東ティモールも、長年にわたる紛争を経て、独立を果たしたばかりであった。
東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。
当時、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。
それらの活動が終了・縮小された後の2006年に、東ティモール騒乱が発生し、政府は独自に事態を収拾できず各国の軍隊に支援を要請する。
ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いていた。
その夜、オーストラリア軍などが上陸し、沈静化した翌日に、ぼくは国外退避することになる。
平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。
ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。
机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~からの自由」、特に「他者(の干渉)からの自由」ということである。
誰もが理解するところである。
シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。
政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。
その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。
「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。
ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモール騒乱)をじしんが経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。
残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。
「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。
また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。
そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。
ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。
「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。
「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。
自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。
日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。