生き方の方向性や行動を選ぶ「基準」というものは、人それぞれが、それぞれの生の中で、意識的にあるいは無意識的にもっている。
ぼくが勝手に師とする社会学者の見田宗介は、著作集(『定本 見田宗介著作集X』)の中で、自身の「基準」に触れている。
社会学における社会理論や価値意識などの精緻な研究を続けてきた見田宗介は、「じぶんはどうか?」と問われたりする中で、しっくりとこない経験をする。
基準となりうるような、快楽、利害、善悪、正義/不正(正邪)等のどの基準も、自分に合わない。
そのうちに、現実を生きていく中で、ある時期から、非常に明確に感知できるようになる。
しかし、「簡潔な二字熟語」では表現できず、長くなってもよいからということで表現をしようとして、次のようなところに行き着く。
●<気が充ちる/気が涸れる>
●<気が澄む/気が濁る>
●<気が晴れる/気が曇る>
見田宗介は、次のように言葉を届けている。
…気が涸れること、気が濁ること、気が曇ることはやらない。「わがまま」と言われても拒否する。気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を必ず選ぶ。「気」というものがどういうものか、現在の科学は正確に定義することができない。精神か身体かといえば、精神であり、身体である。利己か利他かといえば、利己であり、利他である。また、どちらでもないものでもある。けれども、<気が充ちる/気が涸れる>、<気が澄む/気が濁る>、<気が晴れる/気が曇る>という現象は明確に存在している。そして、気が充ちわたるような方向、気が澄みわたるような方向、気が晴れわたるような方向を選択すれば、大きい方向性としてまちがえることはないとわたしは考えている。…
見田宗介『定本 見田宗介著作集X 春風万里』岩波書店
この挿話を聞きながら、ぼくたちは、じぶん自身に問うことができる。
じぶんの「生き方の方向性や行動を選ぶ基準」は、どのようなものであるだろうか?
見田宗介の経験から、ぼくたちは、いくつかのヒントを拾い出しておくことができる。
第1に、人は、「基準」を最初からもっているわけでは必ずしもなく、生きていく過程で、感知し、言葉化していくことができる。
最初から明確に「基準」をもつような人もいるけれど、生きていく過程で、しぼりだされ、浮かび上がってくるようなものでもある。
第2に、しっくりくるまで「じぶんの言葉」で表現をこころみること。
言葉を、じぶんの精神と身体の「土壌」にひたしてみることである。
第3に、「基準」でじぶんをしばるわけではないが、方向性を確認するものであること。
基準がほんとうに「じぶんの言葉」であれば、それはきっと、大きな方向性へと導いてくれることである。
ぼく個人のことはというと、やはり関心を持ち続けてきて、生きてゆく過程のその時どきで、基準(=言葉)と行動を常に行き来しながら、「じぶんに合うか」を確かめてきた。
いっときには、例えば、「チャレンジングか/チャレンジングではないか」などを、ぼくは採用してきた。
しかし、基準と行動の行き来(=フィードバック)の中で、しっくりこないものを感じつつ、一生懸命に、精神と身体双方に合うような言葉をさがしてきた。
そのうち、ぼくは「長くなってしまう形」で、<個人ミッション>へと昇華させてきた。
<個人ミッション>
子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、そして感動的に
生ききることのできる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。
<個人ミッション>に沿うかどうかを、ぼくは「生き方の方向性や行動の基準」としている。
そう考えた後で、しかし、より簡潔な言葉をさがしてみる。
ぼくはじぶんの記憶をさぐり、何を「基準」としてきたのかと、さらに思考を重ねる。
<個人ミッション>に通底するようなものとして、ぼくは、ひとつ思い当たる。
それは、<気流の鳴る音>だ。
見田宗介が真木悠介名で書いた著作のタイトルである。
20歳を超えたところで、ぼくはこの名著に出会い、ぼくの内側が開かれていくのを感じた。
生き方や行動を選ぶにおいて、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
「気流の鳴る音」は、<はじまりの音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<新しい風をかんじさせる音・気配>である。
「気流の鳴る音」は、<生きるリズムがきこえる音・気配>である。
ぼくは、耳をすます。
そこに、「気流の鳴る音」が聞こえるかどうか。
気流の音が聞こえるとき、そこに、はじまりがあり、新しい風がふきぬけ、生の躍動がこだまするのだ。