仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。
何かを一緒に成し遂げていくうえで、コミュニケーションはとても大切である。
しかも、成し遂げなければいけない時間の幅が、どんどん短縮されてきている中で、効率的なコミュニケーションも求められる。
効果的かつ効率的なコミュニケーションの技を磨いていくことに、ますます焦点はあてられていく。
そのことを理解しつつ、「上手くいく/上手くいかない」という次元から下へ降りていきながら、手段としてのコミュニケーションではなく、それ自体が歓びであるようなコミュニケーションのことを実感しておくことが、ぼくたちが他者と共に仕事をしていくうえでは肝心なことである。
思想家の内田樹は、著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)のなかで、ドストエフスキーの『死の家の記憶』に出てくる究極の拷問という話を取り上げて、歓びとしてのコミュニケーションに光をあてている。
ドストエフスキーの『死の家の記憶』に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しのような仕事に人間は耐えられません。
しかし、同じような労働であっても、そこに他者との「やりとり」さえあれば人間は生きてゆけます。たとえ、穴を掘って埋めるだけというような作業でも、人がいて、一緒にチーム組んで、プロセスの合理化とか、省力化とかについて、あれこれ議論したり、工夫したりしながらやれば、そのような工夫そのもののうちに人間はやり甲斐を見出すことができます。…
仕事の話で人々が忘れがちなのは、このことです。
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
このことに触れたうえで、内田樹は、人間が仕事に求めていることは、究極的には「コミュニケーション」であるとしている。
仕事としてやったことに他者からの応答、ポジティブな反応がある。
このような「やりとり」が人間性の本質であり、それが満たされることで、人間は満足を得ていく。
この「やりとり」を、内田樹は<交換>として取り出し、物々交換、お金の交換、言葉の交換(ただ相手が言ったことを繰り返すだけの言葉の交換含め)と展開している。
人間は交換が好きであるということへの視点である。
内田樹が触れている三浦雅士の「三浦説」は面白い。
三浦説によると、むかし、山の民と海の民は収穫物が余ったから物を交換したのではなく、交換したかったから、交換するのが愉しかったから、たくさんの収穫物を収穫したという。
そうして、分業、階級、国家が生まれたという、「ふつうの考え方」の逆さの考え方だ。
ますます加速し、ますますのダイバーシティの環境のなかで、コミュニケーションの困難さにぶつかっていると、つい忘れがちになってしまう、<歓びとしてのコミュニケーション(言葉のやりとり・交換)>を、ときには思い出し、実感したい。
そこへの暖かな視点があるだけでも、コミュニケーションが上手くいかないときの「捉え方」も、いくぶんか変わってくるように、ぼくは思う。
コミュニケーションが上手くいったときは、ひとつの祝福である。
多くのことが「手段」におしこめられていく世界にあって、「それ自体として歓び」である世界へ、いろいろなことをひらいていくこと。
時代は、確実にその方向性に向かっている、とぼくは思う。