社会学者の見田宗介の書くもののなかには、ときおり、<まるいもの>を素材に、この世界を考える論考がある。
<まるいもの>とは、りんごと地球である。
見田宗介は名著『宮沢賢治』のなかで、宮沢賢治の書くものに繰り返し立ち現れてくる「汽車の中でりんごを食べる人」に触れながら、「りんご」の形態から、宮沢賢治の作品と生とを照らしだす照明を手に入れている。
「りんご」の形態としては、だれもが見て取るように、それは<まるいもの>である。
しかし、見田宗介は、<まるいもの>に加え、「孔のある球体」であることに目をつける。
りんご自体の「深奥の内部に向って一気に誘いこむような、本質的な孔をもつ球体」(見田宗介)である。
宮沢賢治の作品の中で、汽車にのる人たちは、そのような形態をもつ「りんご」を、食べていたり、手にもっていったりする。
…人間の禁断の知恵の源泉についてのよく知られている神話の中で、<鍵>の象徴としてえらばれているように、存在の芯の秘密のありかに向って直進してゆく罪深い想像力を誘発しながら、そのことによって、とじられた球体の「裏」と「表」の、つまり内部と外部との反転することの可能な、四次元世界の模型のようなものとして手の中にある。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
見田宗介は、この「内部と外部との反転」ということを思考の方法として、宮沢賢治をあざやかな仕方で、よみといていくことになる。
「社会」に焦点を合わせ、現代社会とそのグローバル社会をみすえながら、見田宗介は「地球」という形態にふれる。
球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても障壁はないが、それでもひとつの「閉域」である。
グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。二十一世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外はあるが、地球に域外はないからである。
見田宗介「現代社会はどこに向かうか(二〇一五版)」『現代思想』2015, Vol.43-19
グローバル経済主義によってグローバル化が進展してきた地球は、地球という球の「有限」に出会う。
その「有限」の空間の中に、宮沢賢治がもっていたような想像力(つまり人だれしもがもつ想像力)によって、どのように「無限」をつくりだしていくかが、ぼくたちに投げかけられた課題である。
見田宗介は、真木悠介名で書いた『自我の起原』(岩波書店)で、動物行動学のローレンツの「幼児図式」にふれて、他者との「相乗性」の契機としての<誘惑>を論じている。
幼児は「かわいさ」の感情を人によびおこす。
ローレンツは幼児図式で、「かわいさ」をよびおこすことの特徴のひとつとして、「まるみ」を帯びた形態を挙げている。
このような「かわいさ」を含め、人は(広義の)他者からいつも作用されている/はたらきかけられている。
他者にはたらきかける方法の究極は「誘惑」であり、他者に歓びを与えることである。
幼児の「まるみ」を帯びた形態は、人にはたらきかけている(ともいえる)。
ぼくたちは、ほほえみを投げかけてくる幼児を、歓んで「世話」する。
<まるいもの>は、見田宗介(真木悠介)の書くものの中で、とても大切な形態として現れる。
それは、どのようにしたら歓びをもって生きていくことができるのか、という見田宗介の問いに、まっすぐにつながっていく形態であり、深く触発する形態である。
それにしても、りんごと地球。
とても素敵な響きだ。