『National Geographic』(ナショナル・ジオグラフィック)の短い映像に、ぼくは強い磁力に引かれるようにして、ひきこまれてしまった。
「Healing From a Civil War, These Children Choose Forgiveness」(内戦から癒されること、これらの子どもたちは赦しを選ぶ)というタイトルと、動画リストに映されている子どもたちの眼差しに、ぼくは、なんとも言えない身体的な揺らぎを感じながら、引かれたのである。
Bintouちゃん(12歳)はイスラム教徒、またGausくん(9歳)はキリスト教徒。
中央アフリカ共和国で2012年から続く内戦(内戦は一方で宗教間などの争いの様相を呈す)において、二人はそれぞれ、派閥の敵対する側におかれることになった。
内戦にまきこまれた子どもたちが、その体験を振り返りながら自らのことばで語る。
声は今にもとぎれそうな声である。
家族を殺されながら、でもそこに「復讐」の連鎖をつくるのではなく、「ゆるし forgiveness」の声を放つ。
内戦前はふつうに共生していた二人は、内戦による「分離 separation」の力に、こうして抗ってゆく。
眼はどこか虚空に向けられながら、なんとか「希望 hope」のかけらをつかもうとしているかのようだ。
子どもたちは「ゆるし forgiveness」を選択する。
この映像は、ぼくのなかで、(今は平和な)西アフリカ・シエラレオネの風景と重なる。
広大なアフリカを一緒くたに語ることはできないし、中央アフリカ共和国からシエラレオネの間には距離があるけれど、それでも、風景の近似性、そしてなによりも内戦による混乱、痛み、傷痕、語りつくせないものが、ひろがっている。
シエラレオネにぼくが滞在していたのは、2002年後半から2003年前半にかけてである。
シエラレオネは内戦が終結したばかりで、ぼくはNGO職員として、支援を展開するNGOの一員として活動していた。
シエラレオネ国内はもとより、隣国リベリアの内戦のため、リベリア難民がシエラレオネにおしよせていた。
そのときに、同じ空間を共有し、同じ空気を吸い、生きるという場を共にした、シエラレオネとリベリアの子どもたちの、その姿や表情が、この映像にどうしても重なってくる。
ぼくの「じぶん」ということに、彼ら・彼女たちの声が、共生している。
「Forgiveness is like water.」
「ゆるしは、まるで水のようなんだ」と、Gausくんは、しずかに語る。
映像は、子どもたちが井戸のようなところから吹き出す水で戯れる様子を映し出し、またGausくんが川の浅瀬のようなところを歩く姿を映す。
Gausくんがこのことばによって「何を」言おうとしたのかは、明確には語られていない。
でも、このことばは、ぼくの深いところに響いてくる。
ぼくが思うに、「水 water」は、まずは生活のためのものであるけれど、吹き出る水に「一緒」に戯れる子どもたちの表象は、子どもたちを(人を)「つなげる」ものとしてあるように見える。
また、水は、それに身体をひたすことにより、心身を「洗う」ものである(過去のこと・記憶を洗ってくれるものであり)と同時に、川の流れのように、絶えず流れをつくって、「洗い流してくれる」ものである。
まるで水のような「ゆるし forgiveness」とは、じぶんの内面を「洗う」と同時に、他者たちの/他者たちに向かう気持ちを「洗い流す」ものである。
このようなものとして、「水 water」とは、「生命そのもの」である。
子どもたちは「自然」の存在であり、このようなことを、意識することなく感覚しているように、ぼくには思えてくる。
「ゆるしは、まるで水のようなんだ」
「ゆるし forgiveness」を、じぶんたちで選んだ子どもたちの「物語」である。
それははるか彼方のことではなく、この先の平野と山と大海を超えていったところに生きている「物語」である。