「第十七回 小林秀雄賞」を受賞した、禅僧である南直哉(みなみじきさい)の著書『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社、2008年)。
この本は、思想家の内田樹が『新潮』でこの本の序章と選考委員のコメントを読んで「背筋がざわざわしてきた」ことから、書店に飛び込んだという本。
「背筋がざわざわする」本とは、それだけでももちろん読んでみたくなるけれど、それよりも、新潮社 Webサイト『Webでも考える人』での、南直哉の「受賞インタビュー」を読んでいたら、すぐにでも読みたくなったのである。
インタビューで、南直哉は、「仏教」の世界に入った契機を、つぎのように語っている。
私はブッダなり道元禅師に共感したから仏教に賭けてみようと思ったわけで、信心からではありません。なぜ共感したかというと、自分と同じ問題を抱えていると思ったからです。私の僧侶としての土台は、すべて二人に対する共感です。
そうすると次は、その問題をどう解決するかが大事になってくる。ブッダも道元禅師も「こうしてみたらいいのではないか」ということを言っている。言葉であれ、思想であれ、実践であれ、問題を解決するための道具として示されているわけです。ならば、同じような問題を抱えている自分もその方法を試してみるべきだろうと。
このようであるから、南直哉が他のお坊さんと話をするとき、大体が話が合わないという。
話における言葉や論理の立て方が根本から違うという感覚を、「土俵が違う」というよりも、むしろ「競技が違う」というように表現している。
南直哉が、このように「根源的な問題・問い」に向かうところに、ぼくはやはり「共感」する。
ぼくの生活空間のゆがみからか「宗教」的なものをぼくは避けてきたようなところがあるけれど、南直哉は、その、ぼくが「避けてきたところ」を剥がして、あくまでも「「根源的な問題・問い」の地平で、語りかけてくれる。
同業者から「南さんには信仰がないね」と言われる南直哉は、つぎのように応答する。
「〇〇は真理であるから、信じなさい」と言われた瞬間に、ある錯覚の中に溺れていくような気がするんです。その“真理”は、時の権力や正義と結びついて、最初の意図とは全く違うところに連れていかれることもある。…
私は“真理”という時に生じるデメリットが、メリットよりも大きいと思う。根拠や真理とされるものがなければ、人間の社会と実存を支えられないだろうというのはわかります。しかし私はそこにデメリットを見てしまう。それは副作用と言い換えてもいい。その副作用を牽制するところに、仏教の凄味がある。
禅僧でありながら、「仏教」に距離をとり、あくまでも「根源的な問題・問い」に寄り添う。
「これが真理だ」と言い切らず、「答え」に距離をとり、どこまでも、問い続ける。
このような「南直哉」だからこそ、ぼくは、彼の本をいっそう、読みたくなる。
南直哉が禅僧だからというのではない。
南直哉がブッダと道元禅師に感じたように、ぼくも南直哉に共感を覚えるからだ。
それは、「自分と同じ問題を抱えている」ということにおける共感であり、その語り(のスタンス)への共感である。
こうして、ぼくは、南直哉の著書『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』のページをひらく。