能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
つまり、能の創作において、世阿弥は「能の構造」を「序破急(じょはきゅう)」にするように説いていることである。
「序破急」はそもそも雅楽の用語であったのだが、世阿弥は「観客を引き込む作劇法」として応用したという。
安田登の説明(前掲書)をもとにすると、能における「序破急」は以下のようになる。
●「序」:観客を場に引き込む。いろんな要素を投げることで、無意識下に「何か」を埋め込む。
●「破」:大切なことをじっくり展開する。途中で(半分くらい目を開けて)眠くなる状態がよく、観客の心の深いところに降りてゆく。
●「急」:目が覚めることをする。
能においては、さらに、それぞれのなかに「序破急」があるという(たとえば、「序」のなかに「序破急」があるというように)。
このような「序破急」は、演劇や音楽の分野にかぎらず、華道・茶道、書道、武術、文学などに応用されていったようで、安田自身も、この方法論を、短い文章を書くこと、プレゼンテーションをすること、講演することに適用していることを述べている。
安田登の好奇心と知見のひろがりと深さに圧倒されながら、ぼくが興味深く読んだのは、「序破急の構造」と「英雄になる基本構造」の比較(違い)についての見方のところであった。
「英雄になる基本構造」は、アメリカの神話学者Joseph Campbell(ジョーゼフ・キャンベル)が神話のなかに見出した「構造」のパターンである。
それは、世界の様々な神話に共通する英雄の型であり、キャンベルは「Departure 出発 - Initiation 通過儀礼 - Return 帰還」として見出している。
これに関連してよく知られているのは、キャンベルの「英雄になる基本構造」に感化されたジョージ・ルーカスが、映画『スター・ウォーズ』の制作においてこの「構造」をベースにしたことであり、安田登も、本のなかで、このことにふれている。
そのうえで、安田登は、『スター・ウォーズ』の構造が、「序破急の構造」になっていることを指摘しながら、しかし、能とキャンベルの見た神話との「違い」について、つぎのように書いている。
能とキャンベルの見た神話との違いは、後者は必ず「帰還」の場面があることでしょう。召命を受けた主人公が、一度共同体から出て敵と戦い、そして帰還することによって、共同体を救う。現実的に変わることを大事にする、これは英雄の類型です。
でも能の場合は、事態に変化はありません。自分の過去を語り、ときには恨み言を言った幽霊は本姓を明かして去るだけで、現実的に何かを変えるわけではない。でも、旅人(ワキ)に話を聞いてもらった幽霊(シテ)は救われ、ワキ方が演じた、幽霊と出会い、その声を聞いた現世の人の内面も確実に変わっています。そして、それが結果的に共同体を救うことになるのです。安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「現実的に変わることを大事にする英雄の類型」と「現実的に何かを変えるわけではない類型」。
このような「対称性」ということにおいては、異なる角度から、思想家の加藤典洋が、「ディズニーのアニメ」と「宮崎駿のアニメ」を対置しながら、登場人物たちの「成長」ということを素材に書いている(加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年)。
加藤典洋は、「ディズニーのアニメ」を「大人から見られた成長」としている。
ディズニーのアニメは、物語として悪に対峙する「正義」の物語が展開され、またその過程において「子どもが大人になるという成長」の物語である。
そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまう成長観、言い換えれば「近代的な成長の物語の型」があると、加藤典洋はいう。
宮崎駿は、このような型とは異なる現実を描く。
映画『千と千尋の神隠し』では、映画の冒頭でトンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてこの世界にもどってくるときも、千尋は相変わらず心細そうに母親の手にすがりついている。
そこでは「成長」は目に見える形では見られない。
けれども、千尋やその周辺に変化が見られないとしても、だからといって、成長や変化や影響がないということではないだろう。
ただし、それらが「見えにくい」ということはある。
このような対称性において、どちらが良いだとか悪いだとかいうことではなく、ひとまずはそのような対称性(違い)があるのだということだけを、ここでは書いておきたいと思う。
このことを問題意識のひとつとして、ぼくの「考えること」の抽斗に、いったん入れておくのである。
能楽師安田登に引き続き耳を傾けながら、ぼくはこうして、メモをとる。