日本から海外に出てゆくとき、その形態が旅であれ、ワーキングホリデーであれ、仕事であれ、移住であれ、読んでおきたい「必読書」。
もし、そんな「必読書リスト」をつくるとしたら、ぼくは迷わずに、つぎの一冊をリストに加える。
内田樹『日本辺境論』(新潮新書)。
これは、日本・日本人論である。
内田樹自身が言及しているように、「日本・日本人論」の射程において、この本にはほとんど創見といえるものは含まれておらず、「日本・日本人論」について知っておくべきことは、これまでに論じ尽くされている。
「問題は…」と、内田樹は続けて書いている。
問題は、先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として語り継ぐこともなく、ほとんど忘れてしまって今日に至っているということです。
先人たちが、その骨身を削って、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を構築してきたのに、私たちはそれを有効活用しないまま、アーカイブの埃の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、「日本とは……」という論を蒸し返している。内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
ここで言われている先賢や先人には、たとえば、丸山眞男、沢庵禅師、梅棹忠夫、養老孟司、司馬遼太郎、川島武宜などが念頭されているが、この「問題」について、ぼくは同意せざるをえない。
内田樹が提案するように、これらの先賢たちの論に一気に向かうことも方法のひとつではあるけれど、いきなり丸山眞男や沢庵禅師を読もうと思う人は比較的少数だろう。
だから、内田樹による、さまざまな日本論の「抜き書き張」(内田樹)は、創見はなくても、そのようであることで役に立つものあるし、また「唯一の創見」と内田自身が語るつぎのような事実には、目を開かれざるをえない。
私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年
冒頭のほうでこのように言及される箇所を読んだだけで、ぼくはこの本の価値を高くひきあげてしまった。
日本の外で16年以上の歳月を過ごしながら、執拗にぼくのもとにやってくる問いたち、「日本文化とは何か」「日本人とはどういう集団か」などなど。
日々の生活や仕事のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。
そのようななかで先賢たちの日本論にはやはりはっとさせられ、納得させられたりするのだけれども、さらにそこに通底している「日本人の宿命」(同一の主題に繰り返し回帰すること)という視点は、じぶんの立ち位置そのものを問われるような感覚が一気にわきおこるのである。
「グローバルに活躍する方法」だとか、「グローバル人材になるために」だとか、「異文化理解のために」だとか、いろいろと役に立つ本はあるし、実際の生活や仕事で効果を発揮することもあるだろう。
けれども、方法論だけをじぶんに重ね、それまでの「じぶん」というものを所与のものとしていると、これまでの経験などに条件づけられた思考や行動が、いろいろな場面で、無意識のままに、現れてくる。
そのところも含めて射程とし、対自化しておくためには、「日本文化とは何か」や「日本人とはどういう集団か」といった問いに正面から向かっておくことが必要になる。
だから、海外に出てゆくさいの「必読書」の一冊として、ぼくは迷わず、この、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)をリストに加える。