小説家・詩人のD・H・ロレンス(1885-1930)は、著作『アポカリプス』の最初のほうで、つぎのように書いている。
…6冊そこらの本を読むよりも、あいだをあけて、一冊の本を6回読むほうが、はるかに、はるかによい。ある特定の本がそれを6回も読むようにあなたを呼びとめるのであるのなら、それはそのたびにより深くより深くすすむ経験となり、また魂の、感情的な、精神的なぜんたいを豊饒にするだろう。
『The Complete Works of D.H. Lawrence』Delphi Classics 2012 ※日本語訳はブログ著者
6回どころか、「ある特定の本」は、20年以上のあいだに、いくどもいくども、ぼくを「呼びとめる」存在でありつづけてきた。
今も再度、深く読んでいるところだ。
D・H・ロレンスの語るように、読むたびに、ぼくにとって「より深くより深くすすむ経験となり、また魂の、感情的な、精神的なぜんたいを豊饒にする」ような本だ。
このブログではいくどかとりあげているけれど、それは、真木悠介の著作『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)である(なお現在は、真木悠介著作集にも収められている)。
この本については、これまでにも、たとえば、以下のタイトルを付したブログで書いた。
●「「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。- 真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』。」
●「生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。」
ここ数日、再度深く読みすすみながら、この『気流の鳴る音』を捉える言葉として、「分類不能の書」であるということを、やはり深く深く感じながら読んでいて、この本のことをブログになんどでも書こうと思ったのであった。
「分類不能の書」とは、その呼び方のとおり、カテゴリー化を拒絶するような本である。
真木悠介は、じしんの他著作『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店、1993年)について、「分類の仕様のない書物」を世界の内に放ちたいと、その「あとがき」で書いているが、真木悠介の書く著作群は、『自我の起原』も、『時間の比較社会学』も、そして『気流の鳴る音』も、いずれもが、「分類の仕様のない書物」(分類不能の書)である。
べつのところで真木悠介は、野口晴哉の名著『治療の書』(全生社、1969年)が「分類不能の書」であることに触れながら、じしんにとって「最も大切な書物」の一冊であることを書いている。
…『治療の書」はその書名からしても、野口晴哉が「整体」という、身体活動=身体相互活動の創始者として知られるということからしても、何か実用的な健康書か医療技術の専門書か、そうでなければ反対に宗教書の類のごとくに受け取られかねないからである。それはいくつかのわたしにとって最も大切な書物と同じに、「分類不能の書」、野口晴哉の『治療の書』としかいいようのない孤峰の書である。
見田宗介「春風万里ー野口晴哉ノート」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
真木悠介(見田宗介)にとって「いくつかの最も大切な書物」は「分類不能の書」であるということとおなじに、ぼくにとっても最も大切な書物は「分類不能の書」であり、そのような書物は、挙げるとすれば、真木悠介の著作群である。
『気流の鳴る音』は、その筆頭である。
そして、今回この本を再読しながら(何回読んでいるかカウントできない)、そのことを、再度深く感じたのであった。
「分類不能の書」という提示のされ方は、はじめて『気流の鳴る音』に出会った20歳頃のぼくにとって、圧倒的な影響をもつものであった。
当時、大学で「学問」を学んでいたわけだけれど、社会学者である真木悠介(見田宗介)によって書かれた『気流の鳴る音』は、専門科学の垣根だけでなく、「生きかた」と「学問」という垣根をさえも解体してしまうものであったからだ。
大した数の本を読んでいたわけではなかったけれど、なにはともあれ、そのような本はそれまでに読んだことがなかった。
じぶんが「生きる」という経験が、そこでは語られており、学問や科学もとりあげられているけれど特定の科学に偏るのでもなく(一応「比較社会学」がコアとしては立てられている)、真木悠介の『気流の鳴る音』(孤峰の書!)がそこには圧倒的な存在感をもってたたずんでいるのであった。
そんな本をこの20年ほどのあいだ、いくどもいくども読んできたのだけれど、「どんな本か?」と単純に聞かれれば、この「分類不能の書」を前にしながら、ぼくは今だってとまどってしまうことがあるだろう。
本を「要約」しようとする力から、どこまでものがれてゆくような、そんな本なのだ。
でも、ここでは、『気流の鳴る音』≪ちくま学芸文庫版≫の背表紙に記された「本の紹介」文を引いておこう。
「知者は<心のある道>を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会うことを通して、「近代」のあとの世界と生き方を構想する翼としての、<比較社会学>のモチーフとコンセプトを確立する。
真木悠介『気流の鳴る音』≪ちくま学芸文庫版≫
ところで、今回読みながら思ったことのひとつは、『気流の鳴る音』でとりあげられる素材として、「われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁」として出会うインディオの世界があるのだけれど、このインディオの世界を描いたカルロス・カスタネダの著作シリーズはまだ直接読んだことがないことであり、きっちりと正面から読んでみたい、ということである。
20年ほど前には、カルロス・カスタネダの作品を直接に読もうとは思わなかったのは、ただその気にならなかっただけとも言えるけれども、『気流の鳴る音』において真木悠介の「心身」を通して読み解かれた仕方にあまりにも影響されていたから、カルロス・カスタネダの作品を読むときに、その影響が大きすぎるのではないかと思ったこともあると、今では思う。
でも、あのときから20年ほどの歳月が経過して、ぼくが生きてきたことの「経験」を重ねることで、カルロス・カスタネダの作品を、少しは「ぼくなり」にも読めるのではないかと思うのだ。
ぼくの手元には、カルロス・カスタネダの最初の3つの作品が、Audibleによる「英語音声」としてある(だいぶ前に手に入れていたもので、きっちりと「聴こう」というよりは、いつか聴くことになるだろうくらいの気持ちで手に入れたものである)。
今回『気流の鳴る音』に「呼びとめられた」ことを機会に、これらを聴いていこうと、ぼくは思う。
「近代(そして現代)」のあとの世界と生きかたの構想のなかで、カルロス・カスタネダの作品がどのようにぼくにひびくのか、今から楽しみである。