「ワークライフバランス」ということを、いろいろと考えている。
日本でもここ香港でも、この「標語」ほどひろく社会にいきわたり、賛否両論を起こし、またのりこえの方途の議論を活性化してきたものは、最近ではあまりないのではないかとも思う。
違和感の表明と新しい方向性の積極的な展開として、例えば、落合陽一が提唱するような「ワーク”アズ”ライフ」ということがあったりする。
基本路線においては賛同するところでもあるのだけれど、一歩踏みとどまって、視界をひろげることで、「ワークライフバランス」を考えている。
一歩踏みとどまって考えるとき、ぼくが「分析」をしたいと思ったのは、この標語や賛否や新しい方途は、誰が、誰に向かって、何を意図して語っているいるのだろうか、ということである。
「働くこと」のいろいろな形態と形式と内容を一緒くたにして語るのは性急にすぎる。
そんなことを考えながら、再び読み直したのは、社会学者である見田宗介の初期著作と「現代文化の理論」に関する論考である。
見田宗介の初期著作や論考は、後期の著作群からは思いもよらないほど、「現代日本」の諸相と内実、ひとりひとりの発する声に迫っている。
もうひとつは、「現代文化の総体的な理論」の助走として書かれた、「声と耳 現代文化の理論への助走」(初出:『岩波講座 現代社会学』第一巻「現代社会の社会学」岩波書店、1997年)である。
この論考は、「難解」であるとして岩波新書から出された『社会学入門』(岩波書店、2006年)からは外されたが、著作集の第Ⅱ巻において「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」と改題され所収された。
フランスの思想家ミシェル・フーコーの「権力」にかんする理論にふれながら、見田宗介は次のように書いている。
権力は耳である。このことをフーコーは見事に論じた。権力はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして権力は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…ところで、大衆もまた耳である。大衆はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして大衆は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…権力もまた大衆も、同じひとつのもののそれぞれの器官に他ならないからです。…
方向をもった耳のうしろにはどんな耳でも…、方向をもった身体がある。
見田宗介「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2011年
「どんな思想も、通俗化という運命を逃れることができない」と、見田宗介はこの論考を書き出している。
仏教やキリスト教、プラトニック・ラブやエピキュリアン、マルクス主義やフロイト主義などを、「ある特定の方向に一面化し、単純化し、平板化することを愛好し、必要とさえする力」が、それぞれの時代の社会の構造の力学に根拠があることへと、読者の視点を向けさせている。
「ワークライフバランス」ということも、その言葉が取り出され、使われ、一面だけが語られ、単純化されて語られることは、時代の社会の構造に力学を持っている。
「方向をもった耳のうしろ」には、方向をもった身体がある。
また、そもそも「ライフ=生」ということで見るながら、「ワークライフ」という並置はおかしいにもかかわらず、そのように感覚する「身体たち」をつくってきた社会の構造も、丁寧に取り出されなければならない。
「ワークライフバランス」を一歩引いてみながら、どのような力学のダイナミズムが動き、誰が、誰に向けて、どのように語っているのか、誰が特定の方向に耳を向けて聴いているかなどを、丁寧に取り出していく。
議論が一面的にならないよう、また「未来」という方向性をただ今あることの「否定」という仕方にならないよう、ぼくは「声と耳」の身体のありかを確かめながら、考えている。