生の道ゆきで出会われるものや他者への深い共感に支えられて。- 石牟礼道子、真木悠介、河合隼雄の文章との対話から。 / by Jun Nakajima

いつの頃からだったか、生きていくなかで、「死」というものを、じぶんの近くにかんじるようになった。

小さい頃から猫や犬たちと暮らす中で、彼女/彼らの死に幾度も立ちあうなかで、ぼくの小さな感性が感じ取っていったものかもしれない。

そのような感覚が心の奥深くにつみかさなっていて、忘れているときも多くあるのだけれど、いろいろな場で表層にわきあがってくる。

現実のなかで、人の死に直面したり、死がまぢかであるような環境におかれて、そのような感覚に光があてられる。

 

死の恐怖みたいなこともあるのだけれど、他方で、その感覚は違った方向につれだすことになったように思う。

世界でいろいろな人たち(また美しい自然や生き物)と出会うなかで、ぼくたちはだれもがつかの間の生を生きていることを、強く感覚することがある。

その感覚は、その場と出会いを、とても愛おしいものとして照らし出す。

日本で、香港で、東ティモールで、シエラレオネで、ニュージーランドで、ぼくはときおり、そのような感覚に包まれる。

 

作家の石牟礼道子の作品『天の魚』(講談社)で書きつけられる文章にふれて、社会学者の真木悠介は、次のように書いている。

 

 ここではわれわれの生が死のまぢかにあること、われわれの生の日がつかのまであることが認識され、実感されている。けれどもそれは…索漠たる虚無の感覚にむすびつくのではなく、反対にその生きられる刻と、出会われるものや他者へのかぎりなく深い共感にうらうちしている。…感覚の麻痺や強迫的な信仰や論理のレトリックによるどのような自己欺瞞もなしにわれわれを死の恐怖と生の虚無から解放するのは、存在に向かってひらかれたこの共時性の感覚である。

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店

 

石牟礼道子の視線は、われわれ生きるものすべての生がつかの間であることを認識しながら、また「人類」そのものが永遠でないものとして感受されている。

それらはしかし、真木悠介が語るように、虚無の感覚にむすびつくのではなく、「生きられる刻と、出会われるものや他者へのかぎりなく深い共感」に彩られている。

 

心理療法家の河合隼雄が作家の小川洋子と対談をするなかでも、この「深い共感」にかさなる感覚が共有されている。

 

小川 …魂と魂を触れあわせるような人間関係を作ろうというとき、大事なのは、お互い限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだという一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね。
河合 やさしさの根本は死ぬ自覚だと書いてます。やっぱりお互い死んでゆくということが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。

小川 あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる。相手のマイナス面も含めて受け入れられる。
河合 それで、そういう観点から見たら、80分も80年も変わらない。…そのひとときが永遠につながる時間なんです。

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

 

「永遠につながる時間」は、真木悠介の言う「存在に向かってひらかれた…共時性の感覚」である。

石牟礼道子、真木悠介、河合隼雄といった人たちの書くものの基底にはいつも、「われわれの生が死のまぢかにあること、われわれの生の日がつかのまであること」の感覚がしずかに、そして暖かくおかれている。

その感覚はもちろん虚無につながる感覚ではなく、生そのものを祝福する感覚だ。