「正しさ」と「成長」の捉え直し。- 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を加藤典洋が読みときながら。 / by Jun Nakajima

「シン・ゴジラ」から晩年の大江健三郎にいたるまで、「敗者の想像力」という視点で読み解くという、批評家の加藤典洋の試み(『敗者の想像力』集英社新書、2017年)に圧倒される。

主題については本の全体にゆずるところではあるけれど、宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』を題材にとっても、その視点を通過させて、宮崎駿のアニメが魅力的であることの本質をひろおうとしている。

 

論考をすすめるうえで加藤典洋が対置しているのは「ディズニー」のアニメである。

ディズニーのアニメは、物語として、あきらかな悪や不正に対峙する「正義・正しさ」の物語が展開されるものであり、またそれは、「子どもが大人になるという成長」の物語である。

加藤典洋は、このような成長の物語を「大人から見られた成長」(前掲書)であるとしている。

そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまうような成長観にうらうちされた近代的な成長の物語の型があるという。

 

宮崎駿の映画『千と千尋』はどうだろうか。

宮崎駿が養老孟司との対談で語っている箇所に、加藤はふれている。

 

…この映画のきっかけは、たまたま、10歳くらいの子ども達がいるのを目にしたことである。このとき、自分は、彼らに対し、いま、何が語れるだろうか、と考えた。最後に正義が勝つ、なんて物語を語ろうなどという気にはさらさらなれなかった。そうではなく、「とにかくどんなことが起こっても、これだけはぼくは本当だと思う、ということ」、それを語ってみたい…。

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

『千と千尋』ではよく取り上げられるように、トンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてもどってくるときも、千尋は心細そうに母親の手にすがりついている。

「成長」は目に見える形では見られない。

これがわかりやすいプロットであれば、戻ってくるトンネルでは、自信をもった千尋がいたのかもしれない。

そこには、正義が最後に勝つような物語はない。

 

加藤典洋は「限られた条件のなかでも人は成長できる」という視点を導入しながら、世界の不正を是正するというところまではいかなくても、何をしても無駄ということはないし、何もしなくてもよいということではないとしながら、その限られた条件のなかでも、人は成長して、「正しい」ことをつくり出していくことができると、論を展開していく。

そのうえで、「正しさ」とはなんだろうか、と自問して、応えている。

 

…それは、人が生きる場面のなかから、その都度、「これしかない」というようにして掴み取られ、手本なしに生きることを通じて、つくり出されるものなのではないか。強い立場の人びとの「正義」の物語をお手本にするよりも、新たに自分たちの「正しさ」を模索することのうちに、「正しさ」の基礎はあるのではないか。また、そのことのうちに、本当の成長も兆すのではないか。…

加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年

 

このような物語は、勝者の物語であるディズニー式の「成長」物語とは異質であることとして加藤は対置しながら、その可能性の芽をたしかめている。

何か「正義」の図式があって、その物語にそって「正義」の剣をふるのではなく、人が生きていくなかで、新たな「正しさ」を模索していくこと。

そして、そのような生の内に、本当の成長の芽がひらいていくこと。

加藤自身が言うように、このような模索は、生きる場面においてその都度なされる。

それは幾度も幾度もやってくる場面であり、トンネルをくぐりぬけて、また戻ってきたときに、別人のように成長したというものではないはずだ。

しかし、成長していない、ということでもない。

子どもたちの(そして大人たちの)内面の世界では成長が兆していると視ることのできる眼をもつことができているかが、問われている。