20歳になるまで、ぼくは本という本をほとんどといってよいほど読まなかった。
経験とじぶんでかんがえることが大切と思っていたのだと思うけれど、今思うと、それこそ浅いかんがえであった。
経験とじぶんでかんがえることに、「本」(他者の書くもの、また語り)が加わることで、経験とかんがえること自体にひろがりと深みがでるのだ。
そんな「本の読み方」と本から学ぶ(本と共に生きる)歓びを、ぼくはいろいろな人たちに学んだ。
そのうちの一人、心理学者・心理療法家の河合隼雄は、『こころの読書教室』(新潮文庫、原題『心の扉を開く』)のようなものとして、次のように書いている。
私はできるだけ多くの人に本を読んでもらいたいと思っている。それも、知識のつまみ食いのようではなく、一冊の本を端から端まで読むと、単に何かを「知る」ということ以上の体験ができると思っている。一人の人に正面から接したような感じを受けるのだ。
「情報が大切と言いながら、現代の情報は『情』抜きだから困る」と言ったのは、五木寛之さんである。私もこの考えに賛成だ。人間が「生きている」ということは大変なことである。いろいろな感情がはたらく、そして実のところ、その感情の底では本人も気づいていない、途方もない心の動きがあるのだ。そのような心の表面にある知識のみを「情報」として捉えていたのでは、ほんとうに生きることにはつながって来ない。
河合隼雄『こころの読書教室』新潮文庫
インターネットの発展は、日々、はるかに多くの「情報」の創出をうながしている。
情報空間は「知識のつまみ食い」の機会を次から次へと、つくっている。
しかし、「知識のつまみ食い」をくりかえしてもくりかえしても、なにかが抜けてしまっているような感覚におちいる。
河合隼雄が語るように、心の表面の知識を情報として捉えても、「ほんとうに生きること」にはつながっていかないと、ぼくも思う。
河合隼雄の読書のひろげ方(アンテナの張り方)は、「尊敬する人、好きな人の推薦」だという。
ぼくもまったく同じ「アンテナの張り方」をしている。
だから、『こころの読書教室』で河合隼雄がすすめる本を読む。
4回の講義録として編集されたこの本では、それぞれの講義ごとに、「まず読んでほしい本」五冊と「もっと読んでみたい人のために」五冊が紹介されている。
河合隼雄の関西弁では「読まな、損やでぇ」の、合計20冊の本たちである。
深層心理学の専門書はなるべく避けられ、小説や児童文学・絵本などがとりあげられている。
講義は、「まず読んでほしい本」で紹介された本を読み解きながらすすめられてゆく。
「話の筋」の、いわゆるネタバレがあるけれども、それだけで「わかった」という表面的な世界ではなく、深い世界へと降りてゆくような本である(「まず読んでほしい本」を読んでからこの本を読むのがよいのだろうけれど、ぼくは先に河合隼雄の講義に耳をすましてしまった)。
「私と“それ”」「心の深み」「内なる異性」「心ーおのれを超えるもの」という講義に、ぐいっとひきこまれてゆくのをぼくは感じ、そしてこの「一冊」を読むことで、やはり河合隼雄という人に正面から接したような感覚がわきあがるのだ。
それはこころの深いところに降りてゆくような対話のようなものである。
河合隼雄はこの本を講義録をもとにしてつくられている理由として、「語りかける言葉の方が、人間の心の扉を開いて下降してゆくのにふさわしいと思われる」(前掲書)と語る。
はっと、ぼくはそこで、河合隼雄の語りにひきこまれていった理由のひとつが紐解かれたようにも思った。