「原恩」(見田宗介)あるいは「原悲」(河合隼雄)を生の根本にもちながら。- 「日本文化の前提」をかんがえる。 / by Jun Nakajima

「日本文化の前提と可能性」にかんする論考のなかで、社会学者の見田宗介は(1963年の初期の仕事において)、「汎神論」的世界における<原恩の意識>というものを取り出している。

方法として「汎神論」と対比しているのは「一神教」である。

仮に「価値=白」「無価値・反価値=黒」とする場合として、見田宗介は、次のように描写している。

 

…一神教とは、黒い画面に白い絵のかいてある世界であろう。「神」によって意味づけられた特定の行為、特定の存在だけが価値をもつので、人がただ生きていること、自然がただ存在することそれ自体は無価値であるか、あるいはむしろ罪深いものである…。「汎神論」では反対に、画面全体がまっ白にかがやいていて、ところどころに黒い陰影がただよっている。日常的な生活や「ありのままの自然」がそのまま価値の彩りをもっていて、罪悪はむしろ局地的・一時的・表面的な「よごれ」にすぎない。…日本文化論のレギュラー・メンバーとなっている俳句や和歌や私小説はつねに、生活における「地の部分」としての、日常性をいとおしみ、「さりげない」ことをよろこび、「なんでもないもの」に価値を見出す。…

見田宗介「死者との対話ー日本文化の前提とその可能性」『現代日本の精神構造』弘文堂、1965年

 

汎神論的な世界をもつ精神構造においては、人間であること自体、生きていること自体に価値をおき、人の生や世界を外側から「意味」を与える超越神を必要としない。

これを、見田宗介は一神教の<原罪の意識>に対比させる形で、<原恩の意識>とよんでいる。

何かの行為や業績や成功などの前に、ただ生きていることそのものに「恩」を感じるような意識である。

 

心理学者・心理療法家の河合隼雄は、西洋的な<原罪>にたいして見田宗介が<原恩>とよんだものを、<原悲>とよんでいる。

キリスト教は「原罪」が基本となることにたいし、日本の宗教は「悲しみ」が根本になることが多いと、河合隼雄は語っている。

ここで河合隼雄のいう「悲しい」は、河合隼雄自身が指摘するように、「悲しい、哀しい、愛しい、美しい」などを包摂するような<かなしい>として捉えておくことが必要である。

その広義の「かなしい」を根本におく<原悲>は、見田宗介のいう<原恩>と重なるものだと、ぼくは思う。

 

河合隼雄はさらに、一神教の宗教を背景としたからこそ、近代科学が出てきたことを語っている。

 

…西洋の宗教では、神と人は明確に違います。姿形でも、人は神に似せて作られているから、人と他の被造物とも明確に違う。だからそこにピシャッと線が入る。「私がー花を観察する」とか、「私がー落下する石を観察する」という明確な区別があるから、近代科学が生まれたんですね。「観る」という漢字がありますね。外界を「みる」のも、内界を「みる」のもあの「観」です。…ところが「観る」の英語observeは「外」だけを「観察」してるんです。そういう態度は、おそらくキリスト教以外からは出て来ないんじゃないか。

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫

 

確かに、人と自然とが融合しているような文明・文化においては、近代科学は出てこなかったかもしれない。

しかし、見田宗介は前述の論考の最後に、次のように「論理」を深くしながら、このことについて書いている。

 

 ヒューマニズムと内面的主体性の確立が歴史的には、超越神への信仰を媒介としてはじめて可能であったということは、数多くの学者の指摘するとおりであろう。しかしそれは、あくまでも歴史的な必然性であって論理的な必然性ではない。一神教の伝統は、ヒューマニズムと内面的主体性の確立のための、いわば触媒であって、その内的な構成要素ではないことを忘れてはならないだろう。…

見田宗介「死者との対話ー日本文化の前提とその可能性」『現代日本の精神構造』弘文堂、1965年

 

「宗教」というものが社会においてかつてのような力をもった時代がすぎさった今も、そこの根底に息づいているようなものが、日常のふとしたところに見られたり、現象したりする。

現代の多くの人たちが信じる<資本主義>も、そこに深く流れるものにプロテスタンティズムの精神があったことをかつてマックス・ウェーバーは分析し、また、社会学者の大澤真幸が現代の文脈のなかで透徹した論理で描いていたりする。

この世界で、原罪を胸に生きている人たちがいること、あるいは<原恩・原悲の意識>で生きている人たちがいることを知っておくことは、いろいろな人と付き合っていくなかで「ものすごく強いこと」(河合隼雄)である。

「そういう意味で僕らは、いろいろ勉強する必要がある」と、西洋と東洋双方に真摯に向き合ってきた河合隼雄は、ぼくたちに語りかけている。