「物語の善きサイクル」(村上春樹)。- 希望や喜びをもつ語り手であること。 / by Jun Nakajima


「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。

そしてそこに「可能性」をみいだす。

頭でかんがえてきただけではなく、物語などという言葉をふっとばしてしまうような「現実」のただなかでかんがえ、それでもやはり「物語の力」を、その可能性とその方法をぼくはひたすら追い求める。

 

作品が出たらすぐに買って読む作家(たくさんいるわけではないけれど)のひとりに、小説家の村上春樹がいる。

生きることと物語を直接に語った箇所は今のぼくの記憶にはないけれど(そのような視点で村上春樹を読んでこなかったけれど)、村上春樹は「物語の力」を、「小説」ということに託して、いろいろなところで語っている。

物語の「善きサイクル」とよびながら、村上春樹は次のように書いている。

 

 作家が物語を創り出し、その物語がフィードバックして、作家により深いコミットメントを要求する。そのようなプロセスを通過することによって作家は成長し、固有の物語をより深め、発展させていく可能性を手にする。…想像力と勤勉さという昔ながらの燃料さえ切らさなければ、この歴史的な内燃機関は忠実にそのサイクルを維持し、我々の車両は前方に向かって滑らかに…進行し続けるのではあるまいか。僕はそのような物語の「善きサイクル」の機能を信じて、小説を書き続けている。

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

村上春樹の熱心な読者であればすぐに思い出すであろう「モンゴルのホテルでの奇妙な出来事」が、ここでは具体的な例としてとりあげられている。

「物語を創るー物語が(創り手に)フィードバックするー深いコミットメントを要求する」という基本プロセスのうちに成長があり、可能性や希望がうまれてゆく。

 

このように語られる「物語の善きサイクル」は、狭義の「物語」だけでなく、生きることの<物語>も、サイクルの型は同じであるように、ぼくはかんがえる。

そのサイクルの型が「善きサイクル」となるか否かは、もうひとつ別のことである。

「想像力と勤勉さという昔ながらの燃料」、とりわけ「想像力」ということの燃料さえ切らさなければ、生きることのサイクルは(じぶんにとって)「善きサイクル」へと進行してゆくものだと、思う。

その意味において、人はだれもが「小説家」であり、生きることの<物語>をつくっている。

 

村上春樹はこの文章(「物語の善きサイクル」)の最後に、じぶんは「楽天的に過ぎるかもしれない」と、一歩立ちどまって、その歩みの意味をたしかめている。

 

…しかしもしそのような希望がなかったなら、小説家であることの意味や喜びはいったいどこにあるだろう?そして希望や喜びを持たない語り手が、我々を囲む厳しい寒さや飢えに対して、恐怖や絶望に対して、たき火の前でどうやって説得力を持ちうるだろう?

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

このことも、そのまま、生きることそのものに向けられる。

個人の生においても、そして、家族、チームや組織、コミュニティなどにおいても、この文章のメッセージはつらぬいていく力をもっている。

そして、どんな人たちも、その心の奥底には、希望をはぐくむ歓びの経験の記憶をもって生きている。