<アフリカの経験>が記憶からこぼれおちてくる。- 山崎豊子の「アフリカ」(『沈まぬ太陽』)に触発されて。 / by Jun Nakajima

山崎豊子の著作『沈まぬ太陽(一)ーアフリカ篇・上ー』(新潮文庫)の第一章「アフリカ」、主人公の恩地元(おんちはじめ)が、赴任先のケニアのナイロビで、「欧州・中近東・アフリカ地区の支店長会議」の準備におわれていて、ふと一息ついていたときのことである。

 

 ブランディのおかわりを注ぎかけ、恩地は妙に気怠いのに気付いた。
 …
 グラスを置き、シャワーを浴びようと、セーターを脱いだ途端、悪寒がした。額に手を当てると、かなりの熱がある。
 疲れで風邪でもひいたかと、シャワーを止め、バスローブを羽織って、二階の寝室に上って行く階段で目眩みがした。
 風邪薬を飲み、早々にベッドに入ったが、激しい頭痛がし、体ががたがたと震えだした。…
 もしやと、恩地は不吉な予感がした。ナイロビに着任して半年後、ケニア最大の港町であるモンバサの旅行代理店まで営業に出張した折、蚊に刺されたのか、一ヶ月後にマラリアで倒れた。東南アジアのマラリアと異なり、アフリカのマラリアは症状が強烈だった。運よく大事に至らなかったが、もし手当てが遅れた場合は、高熱のために死に至ることもある。

山崎豊子『沈まぬ太陽(一)ーアフリカ篇・上ー』(新潮文庫)

 

この箇所を読みながら、ぼくは、アフリカでマラリアにかかったときのことを思い出していた。

もう15年ほど前になるが、西アフリカのシエラレオネに滞在していたときのことである。

滞在しはじめて、まだ半年も経っていないころ、大きな仕事が一段落して一息ついたとき、夕食後に椅子からくずれおちるように、ぼくはその場に倒れた。

そしてその出来事から1年ほど経過したころ、今度は東ティモールで、ぼくは身体の底から体験することになる。

「東南アジアのマラリアと異なり、アフリカのマラリアは症状が強烈」であることを。

 

そのようなアフリカの経験は、ぼくにとって、ほんとうに「宝」だ。

最初の赴任地がアフリカの地であって、ほんとうによかったと、ふりかえりながら、思う。

アフリカに行くことは、まったくの想定外であったし、そこでの生活はなかなかにハードであったのだけれど、アフリカで生きるという体感が、ぼくの身体のなかに埋め込まれたのだ。

アフリカというところはぼくが思っていたところから180度も異なるところであったと思うけれど、それが、ぼくの「生きることの幅」をひろげてくれた。

恩地元がマラリアにかかった話を読みながら、ぼくは「身体」でアフリカの経験を思い出すようにして、恩地元の<アフリカ>を追っていた。

恩地元の話とは時代も場所も異なるアフリカの地だけれど、ぼくのアフリカの経験が、記憶のなかからこぼれるように、意識のなかに降りてくる。

 

ところで、そもそも山崎豊子の作品をふたたび読もうと思ったのは、社会学者である大澤真幸の著作『山崎豊子と<男>たち』(新潮選書、2017年)の「問いの提起」に惹かれたからである。

 

 山崎豊子は、「男らしい男」を描いた。…彼女ほど、まさに「直球勝負」とも言えるような率直な筆致で、男を描き得た作家は、男女を問わずいない。なぜ、山崎豊子にだけそれがなしえたのか。

大澤真幸『山崎豊子と<男>たち』(新潮選書、2017年)

 

この問いを読みながら、ぼくは、これまでに読んだ山崎豊子の作品に登場する<男>たちを思い起こしていた。

ぼくがそれまでに読んでいたのは2作品、『大地の子』と『不毛地帯』である。

だから、<男>たちは、『大地の子』の陸一心(りくいっしん)と『不毛地帯』の壱岐正(いきただし)だ。

大澤真幸の「問い」に惹かれるように、ぼくは、山崎豊子の描いた「男らしい男」を読みたくなり、まだ読んでいない作品から、『沈まぬ太陽』を選んだ。

『沈まぬ太陽』を選んだ理由のひとつは、それが「アフリカ篇」ではじまっていたことである。

恩地元が住んでいたのは「東アフリカ」あり、ぼくが住んでいたのは「西アフリカ」で、「アフリカ」といえどもまったく異なる環境だけれど、ぼくはアフリカという場の経験の重なりを感じてみたかったのだ。

 

『不毛地帯』を、ぼくは西アフリカのシエラレオネで読み、壱岐正をアフリカで感じていた。

今は、『沈まぬ太陽』を、ぼくはここ香港で読み、恩地元をアジアで感じている。

『沈まぬ太陽』を読んでは、ときおり、大澤真幸の『山崎豊子と<男>たち』を読む。

なぜ、山崎豊子だけが、「男らしい男」を描くことができたのか。

大澤真幸の提起するそんな問いを、ぼくは、壱岐正や恩地元が日本の外で人生の一部を生きたように、日本の外で生きながらかんがえている。

山崎豊子の描く<男>が、ぼくのなかにどのように存在していて(あるいは存在せず)、どのようにぼくの生きることと重なりを共有しているか(あるいは共有していないか)という問いも、じぶんに投げかけながら。