「生きるリアリティの幅」をひろげてゆくこと。- アフリカ・シエラレオネの経験。 / by Jun Nakajima

西アフリカのシエラレオネでの、<アフリカの経験>は、ぼくにとって、今でも言葉に尽くしがたい経験のひろがりと深さに充ちている。

山崎豊子の著作『沈まぬ太陽』を読んでいたら、ぼくの記憶の貯蔵庫から、<アフリカ・シエラレオネの経験>の記憶がとくとくと、こぼれおちてきた。

時間というフィルターにかけられて、過去の記憶の浄清作用も働いているかもしれないけれど、たいへんであったことの記憶も含めて、当時のぼくにはわかっていなかったような、「心を奪われた」人と出来事の記憶たちが、静かに、ぼくの記憶の表層にうつしだされる。

2002年、長年の紛争に終止符が打たれたシエラレオネに降り立ち、NGO職員として支援活動に従事した、ぼくの記憶たちである。

 

空港からフリータウンの市内をつなぐヘリコプターのプロペラが旋回する音。

首都フリータウンの街の明かりと喧騒と静けさ。

頭にたくさんの荷物をのせて、大地を、姿勢よく、すーっと歩いてゆく女性たち。

キャッサバの葉っぱとパーム油でつくられた料理。

紛争での傷跡を心身に背負っている人たち。

一緒に働くシエラレオネの人たち。

トラブルが日常になる日々の仕事。

井戸掘削が成功し、身体で喜びをあらわしてくれる村人の人たち。

マラリアで倒れた夜の空気。

ひどく疲れた夜に、家の外で舞う蛍たちの光景。

運動会で踊りながら行進をして、生きることの歓びを全身で表現する人たち。

こうして、ぼくのなかで、記憶たちがこぼれおちてくる。

 

シエラレオネの生活を思い出しながら、それがとても愛おしくなり、そして「シエラレオネで生きる」という経験が、今のぼくという人間の大切な一部となっていることを感じる。

「世界観がひろくなった」という言い方もできるけれど、それは正確ではないようにも、思う。

「世界観」は確実にひろくなったのだけれど、「観」ということ以上に、このじぶんの心身がもつ「生きるリアリティの幅」がひろがったという方が、感覚としてはより正確である。

それは、本や動画などからだけでは得ることのできない、「あの」空間がもつリアリティに支えられている。

この経験を、少しずつ文章にしているけれど、15年以上経った今でも、なかなかできずにいる。

経験の核のところが輝かしすぎるからかもしれない。

あのとき、あの場所で、一緒に働き、一緒に生きることのできた人たちとの出会いの<奇跡>を感じると、ぼくは今でも心が暖かくなる。