日本を離れ、ニュージーランド、(西アフリカの)シエラレオネ、東ティモール、香港に住んで16年を超え、人生の「踊り場」のようなところで、これまでの海外生活をふりかえったりする。
「世界」で生きていくために何が大切なのだろうと、いくつかの文章も書き溜めている。
香港の街を歩きながら、そういえばまだ文章にしていなかったことに、ふと思いあたる。
それは、言ってみれば、<コミカル視点>。
周りでいろいろと起こる出来事を「面白おかしく観る視点」である。
香港の街で、通りを歩き、店に立ち寄ったりしていてときに、そんなことをかんがえる。
じぶんの想像外の出来事、じぶんの常識外の出来事など、「じぶん」の枠をはみだすような出来事や人に、「世界」に住んでいると出くわす。
日本にいても出くわすときは出くわすのだけれど、異文化・異空間において、その確率と深度はいっそうと増してくる。
単純に、面白いこともある。
でも、じぶんの枠をはずれてくるから、「じぶん」にとって心地よいことばかりではない。
不快感を感じたり、人の対応にいらだったり、じぶんの「正しさ」をもちだしてネガティブにジャッジしてしまうようなこともある。
これらを含めて、「面白おかしく観る視点」があるだけで、気持ちが楽になるし、なによりもそのような出来事や人に出会えたことに感謝の気持ちさえおぼえる。
世界が、<コミカルな空間>として、ぼくたちの前に立ち上がってくる。
こんなことをかんがるきっかけのひとつは、スタンドアップ・コメディである。
コメディアンが、周りで起きているなんでもなさそうな出来事に、<面白おかしさ>の光を投じる。
取り上げられる出来事は、ふつうは不快なものであったり、痛みや苦労を伴うようなものであったりする。
また、例えば、アメリカに進出したコメディアンは、文化と文化の間隙から出てくる「面白おかしさ」を素材に、話を組み立てたりする。
そんなコメディを観ながら、そのように<世界を観る/構成する視点>の鮮烈さに、心を動かされることがあって、<コミカル視点>の大切さを思わずにはいられなくなったりする。
「面白おかしく観る視点」には、それを支える基盤として、やはり<好奇心>の炎が、しずかに燃えている。
また、なにかの「正しさ」などの判断軸ではなく、どれだけ面白いかの軸が、どっしりと座している。
そのような<好奇心>や<面白さの軸>は、文化を超えて、多様性と共振している。
そのようにして、<世界観>を、ひろげてゆくことができるのだ。
それにしても、だれかに体験談を語るときはいつだって、語るのは、このような「面白おかしい」体験談だったりする。
「不快」であったり、「いらいら」したり、「ありえない」という話だったりする。
ほんとうは、そのような体験に、心を奪われているからでもある。