情報通信技術の進展とともに、インターネットやSNS上に「情報」があふれている。
よい面もわるい面も含めてそんな時代に生きているし、社会がこの状況をやめて引き返すことはない。
ぼく個人としては、その可能性を、肯定的にみたい(いわゆる表面的な「情報」ではなく、それを純化させていったときの<情報>がひらく社会の可能性を含めて)。
「本」(あるいはそれに準じるような活字媒体)のよさのひとつを挙げるとすれば、それがどんな本であろうと、一冊の本としての「完結性」あるいは「全体性」を意図的に志向していることにあると、ぼくは思う。
もちろん厳密には、世界や出来事を「完結性」と「全体性」を達成した本などないのだけれど、少なくとも、そこに「世界や出来事を視る眼」(つまりフレームワーク、「メガネ」など)が提示されていて、読む側としては書き手の「眼」で世界や出来事を視ること、またその見方を学ぶことができる。
社会学者の若林幹夫は「書物」(特に学術的な書物)というものについて、つぎのように書いている。
書物とは、そして思考とは、ある全体性を目指しながら、つねに完結しない開かれの中にあって、他のテクストと、それらを見出した他者たちの思考とともに、いつか到達できるかもしれない世界の全体としての理解を目指すものなのだ。…どんな大著でも、テクストの「全体」とはそのような試みの一部をなす、とりあえずの断片なのだ。
若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂、2012年
若林幹夫の書くように、本も「とりあえずの断片」なのだけれども、それは全体性を目指してもいる。
このことは「書く側」になってみると、よくわかる。
『香港でよりよく生きていくための52のこと』を書いたとき、その小さな本のなかにも、やはり「全体性」を志向したのであった。
上述の「とりあえずの断片」は、ネットやSNS上で獲得する「情報の断片」とは異なる。
何かを学んだり情報を得たりすることに、ネットサーフィンとネット検索であっという間に、さまざまな情報をひろいあげていける世界になったことは、ほんとうにすごいことだと思う一方で、今のところ、それらはいわゆる「情報収集」という次元にある。
それは、情報の断片の収集である。
それら断片(あるいは断片に含まれた全体性)からも学ぶことはできるし、人生の一部を変えてしまうこともあるかもしれないが、「情報収集」は、それ自体では成り立たず、そこには<意識や見方のアルゴリズム>あるいは<フレームワーク>が必要である。
それらをもたないままに情報収集をつづけると、情報の断片がただただ積み重なっていくだけである。
クローゼットのない部屋に、モノが散在してゆくイメージだ。
人はただただ散らかった情報にはたえられないから、そこで収集した情報を「まとめる」ことをしようとするが、その際に使われる<アルゴリズム>は、じぶんが意識的に学んだものというよりは、(無意識的にじぶんにプログラムされた)他者たちのアルゴリズムである。
「本」は、<じぶんのアルゴリズム>をつくってゆくことに役立つ。
その土台の上で行われる情報収集は、さらに(じぶんにとって)生きてくることになる。
情報のあふれる時代に、だから、「本」を読む。