本で学ぶことと経験から学ぶこと。- 本だけではないし、経験だけでもない。 / by Jun Nakajima

ぼくが本をみずから手にとって読むようになったのは、20歳頃のことである。

ニュージーランド、とくにオークランドに住んでいたときが、「転機」のひとつであったと、そのときのことを思い起こす。

そのときの記憶のいくつかは、例えば、ニュージーランドに住んでいるとき、日本食レストランでのアルバイトが休みの日に、オークランドの図書館に行って本を手にとってみたこと。

あるいは、オークランドの古本屋で、歴史家エドワード・カーの『The Twenty Year’s Crisis』を購入し、また(確か)シドニー・シェルダンの作品を手に取ったのもこの同じ古本屋であったと思う。

これまで住んでいた日本の環境を離れてみて、空いた時間の「空隙」に、本がそっとあらわれてきたようだ。

手に取ったのが「英語」の作品群であったことも、ぼくが本を好きになったことを後押ししたのだと思う。

英語をきっちりと学びたかったことと共に、英語の本の世界を通じて、ぼくは<いつもとは違う場所>に思考と想像をはばたかせることができたのかもしれない。

 

本を読むようになる前には、本など読まなくても、日々の経験が大切でまたその経験を通してかんがえていくんだというスタンスであった。

今思えば、勝手な言い分だし、未熟な考え方であったように思う。

今は、それらのどちらかではなく、どちらもが大切であると思う。

経験だけではなかなかじぶんの「殻」を出るのがむずかしいし、また経験を通してかんがえることはもちろん大切だけれども、それをまるで「じぶんだけの発見」のように語るのも、ひどく狭い視野である。

これまでに、そして今も、同じことを思考し、それらをさらに先に進めようとしている人たちが存在している。

 

20代前半にあまり(ほとんど)理解できなかったミシェル・フーコーの(素敵な装丁の)著書『言葉と物』において、近代の「人間」を定義したのはカントであると、フーコーは書いている。

そのことが、吉川浩満『理不尽な進化』(朝日出版社、2014年)のなかで簡潔にまとめられている。

 

 カントこそ近代の「人間」を定義してみせた人物だと、二十世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーはいう。フーコーはカントによって定義された人間を「経験的=先験的二重体」と名づけた…。経験的とは文字どおり経験によって、つまり感官を通して知ることができるものをいう。そして先験的とは、論理や数字のように、あらゆる経験から独立に物事を認識する能力である。つまり経験的=先験的二重体である人間とは、世界に存在するモノの一部であると同時に、モノをモノとして認識して世界に位置づけることができる知性的存在ということだ。…近代科学の発展は、このような経験的=先験的二重体によって可能になったといえる。

吉川浩満『理不尽な進化』朝日出版社、2014年

 

ぼくが漠然と(先験的に)かんがえていたことは、すでにその深度をもって、いろいろな知性たちによって追求され、語られている。

本は、そのようなことを教えてくれる。

そして、それは「何かのため」という効用の次元だけでなく、それ自体で「楽しい」ものである。

こんなことを書きながら、20年ぶりに、ミシェル・フーコー『言葉と物』を読みたくなる。