8月末ここ香港における大気汚染の中で生活しながら、見田宗介の名著『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)を手にとり、本をひらく。
1996年に発刊された本書は、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を<ひとつの理論>の中に収め、20年が経過した今も「古い」ということはなく、今でも、そして今だからこそいっそう大切な議論を展開している(*なお、現在では、見田宗介の著作集Ⅰに一部データ変更の上、収められてもいる)。
「闇の巨大」として、あるいは現代社会の「限界問題」として取り上げられ、展開されているのが、以下の問題・課題である。
- 環境の臨界/資源の臨界
- 南の貧困/北の貧困
現代社会の「限界問題1」として取り上げられているのが、環境と資源の問題である。
闇の巨大として語られる「環境・資源」の問題については、今では
この「限界問題1」の章を、見田宗介は、「沈黙の春」という節を出発点として、議論を展開している。
「沈黙の春」(Silent Spring)が学校などでどのように教えられている(あるいは教えられていない)のか、ぼくにはわからない。
その言葉を聞いて、まったくなんのことかわからない、ということもあるだろう。
ぼくが1990年代に大学で学んでいた頃は、レイチェル・カーソンによって書かれたこの『沈黙の春』という書籍は、環境問題・公害問題の「古典」としての位置を占めていた。
「古典」であるということは、見田宗介も書いているとおり、「だれでもその書名をよく知っている割合には、現在ではその内容を必ずしもきちんと読まれていない」(前掲書)という本である。
見田宗介は、この本が提起している問題について、その「基本的な構造」は変わっておらず、「今もなおアクチュアルな問題」であるとしながら、ぼくたちの「感覚のズレ」のようなものについて、教えてくれている。
『沈黙の春』で取り上げられている化学薬品の多くは現在ではほとんど使用されていないけれど、カーソンの描くような環境汚染ははるかに巨きな規模と深度で進行してきた。
そのことを指摘しながら、またカーソンの嘆きを引用しながら、それにつづけて、見田宗介はつぎのように書いている。
…レイチェル・カーソンのこの新しい戦慄を、いくらか「時代おくれ」のものであるように感じる人は多くなっている。それは書かれていることが、解決され、すでに存在しなくなっているからではない。反対に、それが多くの国々で、ふつうのこととなり、だれもそのことに注目しなくなったからである。気づいても、新しい戦慄の声を挙げるということを、しなくなっているからである。人間たちもまた沈黙してしまったからである。あるいは、われわれの中の感受性も、声を挙げるということをしなくなったからである。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』岩波新書、1996年
レイチェル・カーソンにだけではなく、ぼくは、この文章に、この見方に、教えられた。
ひとつ前の時代であれば新鮮な戦慄であり、声が挙げられたことが、今では「ふつうのこと」となってしまっていて、その状況をただやりすごしてしまう。
このことは「環境問題」に限ったことではない。
いろいろな事象や状況を射る見方として、『沈黙の春』と『現代社会の理論』はぼくの中にある。
それにしても、この本の副題にある「情報化社会・消費化社会」という言葉も、「古く」感じられてしまうことがある。
しかし、この本を読み、実際の社会に目をやり、じぶんの生活を振り返ると、これらの言葉が指摘することは、今もそのひろがりと深度を増しているようにも思う。
そして、この現代社会の乗り越えも、この「情報」と「消費」の意味合いを転回し、徹底させてゆくところにあるということも、この本が書かれてから20年以上が経過した今、さらに切実さと可能性を大きくしている。