自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。
いろいろな文化や習俗など、世界でぼくが出会うものを理解しようとする。
「それはおかしい」と口に出てきそうになる言葉をおさえて、一歩立ち止まり、そこに流れている「論理」をつかもうとすること。
相手の考え方ということだけにとどまらず、相手という他者の考え方や行動を規定するようなことの「論理」のレベルにて理解をしようとすることを、ぼくは心がける。
そのような姿勢を教えてくれた書のひとつが、人類学者のレヴィ=ストロースの名著『野生の思考』(みすず書房)であった。
15年ほど前に、途上国の開発・発展という問題、南北問題、貧困問題などを追いかけているときに、手に取った。
書名にも冠せられた「野生の思考」とは、「未開と文明とを問わず、すべての人間に開かれている根源的な思考の次元」(『社会学事典』弘文堂)である。
『野生の思考』の中で、次の引用にはじまり、このように語られる箇所がある。
『科学者は、不確実や挫折には寛容である。そうでなければならないからである。ところが無秩序だけは認めることができなし、また認めてはならないのである。…科学の基本的公準は、自然がそれ自体秩序をもっているということである。」(Simpson)
われわれが未開思考と呼ぶものの根底には、このような秩序づけの要求が存在する。ただしそれは、まったく同じ程度にあらゆる思考の根底をなすものである。私がこのように言うのは、共通性という角度から接近すれば、われわれにとって異質と思われる思考形態を理解することがより容易になるからである。
レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房
「秩序づけの要求」という次元においては、未開思考も文明の思考も、思考形態としては共通している。
「未開」は思考できないのではなく、異質と思われる仕方で思考している。
まったく理解できない「未開の地」であったとしても、そこの社会の中で「秩序づけられた思考形態」がある。
その「思考形態」という「論理」を、つかみだそうとすること。
未開に限らず、異質の文明・文化の世界に中にあっても。
当時、全体を深く読みきれなかった『野生の思考』の中から(それでも)教えられたことのひとつとして、このことが、その後のぼくの「世界で生ききる」ことの姿勢として、ぼくの中に埋め込まれている。
このことを、大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)に出てくる、パキスタンの「職業的乞食」と思われる男のエピソードを読んでいて思い出した。
この男は、小銭を施された際に一言も礼を言わない、というところから始まるエピソード。
詳細はここでは書かないけれど、「イスラーム世界」における「秩序(と思考形態)」を理解しなければ、この謎はとけない。
しかし、言えることは、そこにはきっちりと「秩序(と思考形態)」があることだ。
この男は無礼なのではなく、この「秩序」のなかで、心豊かに生きている。
ぼくたちは、その「心の豊かさ」を視るための<視覚>を手にいれなければならない。
そのようなことを考えながら、『野生の思考』のレヴィ=ストロースにまた学ぶ時期がきたのかもしれないと、ぼくは思う。
<じぶんが準備できたとき>に、「師」はあらわれる。