世界に生きる中では、やはり「宗教」は知っておくこと。- 大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』を読み終えて。 / by Jun Nakajima


香港の南の海上を台風が通過しているとき、大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)を、ようやく読み終わる。

思考のひろがりと深さに、まだついていっていない。

しかし、これまで見て学んできた「イスラーム」とは、また違った視点で「イスラーム」を見ることができるようになったことは確かだ。

 

ぼく自身は特定の「宗教」をもたないけれど、世界を旅し、世界に生きてきた中で「宗教」をより身近に感じてきた。

日本の中にいると「宗教」は見えにくい。

その背景についてはここでは書かないけれど、日本の外に出ると、「宗教」は好き嫌いにかかわらず、自分の生活に顔をだしてくる。

少なくとも、日々の生活の「風景の一部」として、やってくる。

記憶のひとつは、アジアへの旅路で聞くことになった、早朝の(大音量で流れる)イスラームの祈りの言葉である。

西アフリカのシエラレオネでは、キリスト教とイスラーム教などが日々の生活にとけこんでいる。

東ティモールにいたときは、カトリック教徒がほとんどで、ぼくもイベントなどには列席することがあった。

世界各地でいろいろな人たちに出会い、宗教はぼくにとって、「ふつう」のこととなった。

ここ香港でも、TsimShaTsuiには大きなモスクがあり、金曜日に脇の道を通ると、イスラーム教徒の人たちとすれちがうことになる。

宗教が、日常の「風景の一部」となる。

ぼくは、「尊重」の念で、それぞれの宗教を信じる人たちと接してきた。

それから、時間をみつけては文献などで学ぶようにしてきた。

歴史として、社会学として、自己啓発として、それから人と社会の「地層」をさぐるために。

 

さて、日本人は、イスラーム教については、ほとんど知らない。

社会学者の大澤真幸は、この著書の「まえがき」で、このように書いている。

 

 日本人は、あまりにもイスラーム教を知らない。私はかつて、「キリスト教について知らない程度」の順位を付けたら、日本人はトップになるだろう、と書いたことがあるが(『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書)、日本人は、イスラーム教についてはもっと知らない。…
 この無知は、しかし、ちょっとした無知、あまりに細かかったり専門的に過ぎるために知らないという類の無知とは違う。現在の地球の人口の、五人に一人くらいは、イスラーム教徒である。これほどたくさんイスラーム教徒がいるのに、重要な国際ニュースの半分近くがイスラームに関係しているというのに、さらにイスラーム教の普及地域と盛んに商取引をしているというのに、イスラーム教についてまったく何もイメージができないのだとすれば、この知識の欠落は、高くつくだろう。…

大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』講談社

 

大澤真幸は、イスラーム教を専門としているわけでもなく、また中東研究の専門家でもないが、専門家の「盲点」をつきながら、「イスラーム」ということに立ち向かったのが、この書だ。

「イスラーム」を考える論考でありながら、しかし、視点は、縦横に深く広く貫かれている。

イスラームを通じて、大澤真幸の一生をつらぬくテーマのひとつで(あろう)「資本主義」、そして人と社会という「垂直(縦軸)」に深くきりこむ。

また、キリスト教、ユダヤ教、東洋(中国、インド)など、「比較」を方法とし、「水平(横軸)」に広く、しかし深くきりこむ。

『<世界史>の哲学』の思考は、だから、最初から「シリーズ」(古代篇、中世篇、東洋篇、イスラーム篇、近代篇)で組まれている。

『<世界史>の哲学:イスラーム篇』の目次だけを見ても、このことがわかる。

【目次】
第1章:贖罪の論理
第2章:純粋な一神教
第3章:<投資を勧める神>のもとで
第4章:「法の支配」をめぐる奇妙なねじれ
第5章:「法の支配」のアンチノミー
第6章:人間に似た神のあいまいな確信
第7章:預言者と哲学者
第8章:奴隷の軍人
第9章:信仰の外注
第10章:瀆神と商品
第11章:イスラームと反資本主義

章のタイトルを見るだけでも、思考のひろがりを見ることができる。

『<世界史>の哲学』シリーズをつらぬく問題設定は、「西洋の優位」についてである。

なぜ西洋が優位に立ったのか。

「イスラーム」を通じて考えられることのひとつも、なぜ資本主義はイスラームで起きなかったのか(イスラームの方が資本主義に適しているとも言えるのに)。

このような深い思考に入って読み進めているうちに、おそらく、1年くらい経ってしまった。

 

それぞれの宗教には、たくさんの「ふしぎ」がある。

普通に、一般的に考えても、なぜそうなのかわからない。

そのような問題群を議論の入り口にする、社会学者の大澤真幸、橋爪大三郎、それから(一部の著作において)宮台真司による「対談本」は、例えば特定の宗教をもたない者にとって「宗教を学ぶこと」のスタート地点としては、とてもよい本である。

●『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎・大澤真幸(講談社現代新書)
●『ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)
●『続・ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)

中国の儒教などにふれている次の書籍にもふれておきたい。

●『おどろきの中国』橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司(講談社現代新書)

 

これらの著作は、一般的に考えてしまう「ふしぎ」なトピック群を、縦横無尽に議論の俎上にのせる。

そこから、あらゆる方面に「好奇心」が放射されていく、スリリングな議論を展開している。

そして、よりスリリングなのは、そのような議論にふれ、宗教それから人と社会の見方を獲得してゆくことで「世界の見方」が変わっていくことだ。

まるで、かけている<メガネ>を変えるように。

だから、ぼくは学ばずにはいられない。