🤳 by Jun Nakajima
日本の国外(海外)にいると、自分が習ってきたこと、学んできたこと、身につけてきたことが、「相対化」されやすくなる。
日本にいても、意識を高くもって行動していれば、自分を「相対化」することはできるけれど、海外に生活していると、普段の生活の中で、「あれ、こうはしないんだな」といった場面がやってきやすくなる。
「床に座る座り方」も、そのような場面のひとつだったりする。
日本にいて、ぼくが小学校のときから「普通」の座り方としてきた「体育座り(体操座り、三角座りなど)」は、海外ではやはり見ない。
少なくとも、ぼくが目にした記憶はない。
日本の姿勢治療家である仲野孝明は、ブログで「体育座りは、今すぐ止めなさい!!」と警鐘をならしている。
仲野孝明の教えを、『座り方を変えれば、身体の疲れがイッキに取れる!』(Gakken)や『長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい』(サンマーク出版)といった著書、それから仲野孝明のポッドキャスト『成功する姿勢力』から、ぼくは学んでいる。
その感覚を信頼する治療家のひとりだ。
仲野は、診察に来た20歳の女性の「数々の不調の原因」をつきとめていくなかで、彼女が好んできた「体育座り」に原因のひとつを見つける。
体育座りをすると、確かに、腰の部分から背中が曲がってしまう。
彼女は、正しい姿勢をしていくことで、不調から解き放たれていったという。
「体育座り」の起源は明瞭ではないけれど、仲野は、wikipediaに掲載されている情報、1965年(昭和40年)に『集団行動指導のてびき』として学校教育に入ったのが初めてであることに触れている。
なぜ導入されたのかも不明瞭だが、長時間立っていることで貧血を起こす子供たちの状況に対処するため、とも言われている。
日本独自の座り方であるということだ。
冒頭で述べた通り、海外に生活していて、体育座りは目にしない。
そもそも「床に座る」ということ自体、日本では普通だけれど、海外ではそれほど普通ではない。
西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それから香港と生活をしてきたなかで、ぼくは普段床に座ることはない。
椅子やソファーやベッドに座る。
そのような日本と異なる生活様式の中で、「あれ、こうはしないんだな」というつぶやきを、ぼくの内面ですることになる。
よい習慣であればよいのだけれど、体育座りのような「悪い動きや習慣」であると問題だ。
そして「悪い仕方」を、ぼくたちは盲目に習い、盲目に継続してしまっていたりする。
そのために、習ってきたこと・学んできたことを、一度、意識的に取り除くというプロセスを経る。
「unlearning」のプロセスだ。
Mark Bonchek (Shift Think)が書くように、学ぶことのより深い問題は、learningではなく、むしろunlearningにある。
unlearningを終えて/と同時に、新しい仕方を、意識的に、心身にインストールしていく。
海外の生活が15年を超えた今も、このプロセスを起動させる機会がしばしばある。
「座り方」は、まるでアップデートされるOSにいつしか対応できなくなるアプリのように削除され、新しいアプリをダウンロードする。
それほど簡単であればよいのだけれど、人の「習慣」は、削除のボタンを押しても押しても、なかなか削除されない。
海外という環境は、相対化の力と異なる環境の力を発揮して、いくぶんか、このプロセスを助けてくれる。
人と人との<間身体>的な影響と共に、環境に埋め込まれた様式の影響が、ぼくたちに作用する。
床に座る機会を与えないようにして。
ぼくの心身にインストールされている「アプリ」の整理と取り替えの必要性を、ぼくはしみじみと感じている。