ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
この一連の動作のなかで、ぼくの念頭に浮かんでいたのは、村上陽子さんの写真たち。
村上陽子。小説家である村上春樹の奥様である。
村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という、とても美しい本の「美しさ」は、この本に収められている村上陽子の写真たちによるところも大きい(※カバー写真のクレジットは「村上陽子」とあり、まえがきで「妻の写した写真を眺めながら」と書かれているから、カバー写真のほかの写真も「村上陽子」と思われる。仮にカバー写真だけだったとしても、美しい写真だとぼくは思う)。
ウィスキーをめぐるスコットランドとアイルランドの旅。その旅路で出会う猫たちの写真。猫たちだけでなく、渡り鳥や牛たちや羊たちなど。人や建物や自然に加えて、動物たちが、よく撮られている。本の表紙は、アイルランドのバーの、「ギネス」という名の犬が飾っている。
とりわけ「すごい」写真ではないのだけれども、村上陽子の写真にぼくはひきつけられる。「なぜか」なんて深く考えたことはないし、考える必要性も感じないけれど、そこには、ある意味で「哲学」が感じられるのである。
これらの美しい写真と文章にひきつけられて(そして、文庫という持ち運びに便利なことも手伝って)、この本は、ぼくと共に「世界」を旅してきた。
2002年、西アフリカのシエラレオネに住むようになったときも、2003年に東ティモールに住むようになったときも、それから、ここ香港に住むようになってからも、ぼくはこの本を、ぼくの手の届くところに、いつもおいてきた。
手を伸ばして本をとり、本をひらいては写真をながめる。ぼくは、すーっと、その「世界」のなかにはいってゆくことができる。あるいは、村上春樹の「ことばの時空間」に、ゆっくりと降り立ってゆくことができる。
香港の路地裏で、ひさしぶりに猫に出会い、写真を撮る。家で、ぼくは手を伸ばして『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を手にとり、村上陽子の撮った、猫たちの写真を眺める。
眺めているだけでも充分なのだけれども、ついつい、猫たちはなにを思い(あるいは、なにも思わず)、どのように生きているのか。猫たちは、ぼく(たち)になにを問うているのか、などを考えてしまう。
村上春樹の文章に眼を転じると、やはり、いつも眼にはいる文章が眼にはいってくる。
シングル・モルト・ウィスキーで有名なアイラ島で、村上春樹は、好奇心にかられて、島に住んでいる人たちにあれこれと質問をしてゆく。シングル・モルトを日々飲んでいるのか、ビールはあまり飲まないのか。ビールはそんなに飲まないという人に、では、ブレンディッド・ウィスキー(いわゆるスコッチ)も飲まないのか、と質問はつづく。
僕がそう質問をすると、相手はいささかあきれた顔をした。たとえて言うなら、結婚前の妹の容貌と人格について、遠まわしなけちをつけられたような顔をした。「もちろん飲まないよ」と彼は答えた。
「うまいアイラのシングル・モルトがそこにあるのに、どうしてわざわざブレンディッド・ウィスキーなんでものを飲まなくちゃいけない? それは天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」
これをご宣託と呼ばずして、なんと呼ぶべきか?村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
なんとも、ご宣託、である。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに、テレビの再放送番組をつけるようなものじゃないか」。
こんなことばが会話のなかで生まれてくることにも、心を動かされる。
それとともに、ウィスキーにかぎらず、ぼくたちはこのようなことを実際によくしてしまっているのではないか、とも思ってしまう。天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに「テレビの再放送番組をつけてしまうこと」を。
「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているときに」は、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい音楽に耳を傾けたい。そう、ぼくは思うのである。
村上陽子の写真は、言ってみれば、「天使が空から降りてきて美しい音楽を奏でようとしているとき」に、じっとそこにたたずみ、奏でられる美しい風景のなかでしずかにシャッターをおろしているのだと言えるのかもしれないと、ぼくは思ったりもする。