香港のショッピングモールを歩いていて、レストランの入り口にスペシャルメニューが写真付きで宣伝されているのを見る。
メニューは「Baked Potato」(ベークドポテト)で、なんとも美味しそうなイメージにあふれている。
そのレストランに入るつもりはなかったけれど、値段を確認してみると、結構な値段で少しびっくりしてしまう。
「びっくり」の根拠のひとつは、ぼくの「ジャガイモ」に対する見方がある。
一個のジャガイモを単純に値段で価値を決めてしまっている見方である。
もちろん、現代においては、「高級な」ジャガイモがあることは知っているのだけれども、ぼくの生活史が、ジャガイモの見方に影響している。
そもそも、日本に住んでいたころは、ジャガイモはフライドポテトやマッシュドポテトのように、それ自体が主食になるようなことはなかったのが、ニュージーランドに住んでいたときに、「主食代わり」として食卓に出てきたことが、ぼくの「見方」を変えることになった。
一軒家をシェアしていたハウスメイトたちと家で一緒に食事を食べるときに、ジャガイモが主食であったりしたのだ。
あるいは、キャンプサイトで、サイトのオーナー主催のパーティに出た際にも、確か、ジャガイモがどーんと出されていたと思う。
ところで、ヨーロッパの多くの国では、ジャガイモを主食として食べるということについて、それは「昔」からそうであるのではないことを、内田樹は書いている。
…ヨーロッパの多くの国ではジャガイモを主食代わりに食べます。ジャガイモの中にはヨーロッパ人を育てる大地の恵みが含まれているとその人たちは考えているかもしれません。でも、ジャガイモがヨーロッパに広がったのは十七世紀です。もともとアンデス山地が原産地で、インカ帝国を侵略したスペイン人が持ち帰ったんです。…
私たちが「伝統」とか「固有の」とか思っているもののかなりの部分は伝統的でもオリジナルでもなく、ちょっと前にどこかから入ってきたものです。…
内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫、2010年)
ニュージーランドにジャガイモが入った事情は知らないけれど、ヨーロッパなどを経由して、いつしか「ちょっと前に」入ってきたものだろうと推測してみる。
世界を旅したり、住んでいたりすると、こんなことを考えてしまう。
なにはともあれ、ニュージーランドでの生活は、ぼくの「ジャガイモの見方」と、また言ってみれば<ジャガイモとの関係性>をいくぶんか変えることになったのである。
ニュージーランドの大きなスーパーマーケットなどに行くと、ジャガイモが大袋に入れられて売られていて、そのリーズナブルな値段に驚いたことを覚えている。
そんなイメージがぼくの中に埋め込まれているなかで、ここ香港で、一個のジャガイモが「ベークドポテト」になって、トッピングされて、この値段にまさしく「跳ね上がる」ことにびっくりしたというわけだ。
「値段」というものは絶対的なものではないから、好きなものであれば値段を気にせず食べればいいと思う。
けれども、「一個のジャガイモ→ベークドポテト」への変身による「値段の跳ね上がり」を見てぼくが連想していたのは、社会学者の見田宗介が『現代社会の理論』(岩波新書)で書いていた「ココア・パフ」の話である。
ココア・パフとはゼネラル・ミルズ社によって販売されるシリアルの一種であり、原料はトウモロコシ粉、砂糖、コーンシロップ、ココア、塩などである。
ある生産者組合の書記長が、当時トウモロコシの一ブッシェル当たり生産者価格が平均二ドル九十五セントであったことを考慮し、それが「ココア・パフ」という商品になって消費者のわたるまでに、生産者価格の二十五倍になったことなどを告発していることにふれて、見田宗介は告発の正当な論理から「はみだす別の論理」を取り出して、そこに「情報化・消費化社会の可能性」を見て取っている。
…秘密の核心は、第一に、少量の(あるいは微量の)ココアと砂糖と塩とを用いた、食料デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。…「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。…
…ゼネラル・ミルズ社が同じブッシェルのトウモロコシから二十五倍の売上を得たということは、逆にいえば、同じ売上を得るために、二十五分の一のトウモロコシしか消費していないということである。つまり、この場合、飢えた人びとからの収奪はそれだけ少ないということである。…理論として重要なことは、論理的な可能性の問題である。情報化/消費化社会というこのメカニズムが、必ずしもその原理として不可避的に、資源収奪的なものである必要もないし、他民族収奪的なものである必要はないということ…。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)
パフの楽しさやイメージは、「情報」というものがつくりだすことのできるものだ。
ジャガイモの話から逸脱したように見えるかもしれないけれども、「一個のジャガイモ→ベークドポテト」も、「トウモロコシ→ココア・パフ」と同じように、おそらく原材料の何十倍もの価格となり、消費者のダイニングテーブルでは、ベイクドポテトの楽しさとイメージを提供していると推測される。
「情報化/消費化社会というメカニズム」が、必ずしも、資源収奪的ではないものであることが、ここに見られると、ぼくは思ったのであった。
そして、思うに、日本食にはこれらと同じような可能性がたくさん見られるように思ったりもするのである。
こうして、「ジャガイモ」にも、いろいろと深くかんがえさせられるのである。