「聴いていて、わかる」と「書いて、わかる」の段差。- メールマガジンを書きながら思ったこと。 / by Jun Nakajima

「聴いていて、わかる」と「書いていて、わかる」は違うということを、メールマガジンのための文章を書きながら、また書いた文章をメールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」にのせてご登録いただいている方々に送信したあとに、ぼくはしみじみと思う。


「聴いていて、わかる」とは、誰かの話を聴きながら(あるいは「聞きながら」)、「それは知っている」とか、「それはわかっている」とか思うこと、つまり、じぶんはそのことについて「わかっている」と思うことを、ここでは指す。

このような思いは、「聴く(聞く)」だけでなく、本を読んでいるときにも、やってくる。本を読みながら、「こんなことは知っている」とか、「こんなことはわかっている」とか思うことである。

でも、そんなふうに思っていることがらも、じっさいに、じぶんで文章として書くとなると、途端に書けなくなってしまったり、思っていたほどわかっていないことに気づくことがある。


ぼくが配信させていただいているメールマガジンにかぎらず、このブログを書きながら、そのように思うことがやはりあるのである。

とくに、ぼくが勝手に師とさせていただいている、社会学者の見田宗介(真木悠介)先生が書かれるもの、「現代社会の構造」や「消費化・情報化社会」のことから、さらには、「時間」のことから「自我」のことにいたるまで、ぼくはこれまでになんどもなんども、辞書を引く以上の頻度で、読んできた。世界のどこにいこうとも、いつだって、何冊かは携えてきた。

でも、見田宗介(真木悠介)先生の世界観や視点や論理に触発されながら、それらをこのブログで書こうとするとき、「書けないこと」があるのだ。それも一度ではなく、いくども、である。

そこでくじけずに書こうとして、なんとか書いているときに、「わかる」というのが、「読んでいて/聴いていて、わかる」というのとは違う次元で、ひらかれるように感じることがある。

これが、「書いて、わかる」である。

ふつうは、「わかって、書く」ということなのだろうけれど、書いている感覚として、<書いて(いて)、わかる>というのが、ぼくの実感である。

<書いて(いて)、わかる>のは、「聴いていて、わかる」のとは、だいぶ、段差があるのである。


このことは以前から気づき感じていたことで、だから、簡単で平易なことがらであっても、それらを聴きながら、あるいは読みながら、ぼくは「それはわかっている」というふうには聴かないように/読まないようにしてきた。

簡単で平易なことがらであっても、それらを話したり、書いたりしている方々の「わかる・わかっている」度合いや次元は、表面的に聴いたり読んだりしている側がわかるのとは異なっているし、うえで述べたように、聴いたり読んだりして「わかる」ようでいても、じぶんが話したり書いたりすると思ったようにはできない程度の理解しか、じぶんにはなかったりするからでもある。

インプットとアウトプットの、この段差を、メールマガジンの文章を書きながら、また送信したあとに、ぼくは思ったのでした。


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