近代理性の「凝固した「主体-客体」図式」の問題にふれながら、真木悠介(社会学者)は、「歴史」というものの実体について、つぎのように書いている。
歴史の主体=実体は、「個人」でも「社会」でもなく、「つながりあう諸個人」の「相互につくり合う」関係そのものである。…
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年)
真木悠介の名著『現代社会の存立構造』における「個人と社会ー原子論と全体論の止揚」という節で出会う文章である。
歴史にかぎらず、いろいろと学んでいると、「個人」か「社会」か、という議論になることがある。冒頭でふれたように、「凝固した「主体-客体」図式」にはまってしまうと、その見方や考え方からなかなか離れることができなくなる。
そのような「原子論か全体論か」を端的にのりこえる見方が、ここで提示されているのである。
言われてみれば「あたりまえ」のようにもきこえる見方であるのだけれど、実際に日々の生活のなかでは、これまた、なかなかそのように考えることが容易でなかったりする。どうしても、「個人」から考えたり、あるいは「社会」から考えてしまったりするわけだ。
私だけが主体性をもつのではなく、他人もまた主体性をもつこと…。だからこそ歴史は、個人が作るのでもないし、またぎゃくに個人とは無関係に外在する実体としての「社会」の自動運動でもない。たくさんの「私」たちの相互作用の総体としてそれはおりなされていく。社会とは、その実相は、私、あなた、彼、そういった無数の人びとの実践的な相互関係の総体である。
真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年)
時代がつくられ、時代がかわってゆく。歴史がつくられ、歴史がかわってゆく。等々。
「時代」や「歴史」や「社会」がいろいろと語られるときに、ぼくは、この見方に立ちもどってくる。そうして、「凝固した「主体-客体」図式」にはまらないようにしながら、歴史に視線をなげかける。