社会学者の見田宗介先生が、1970年代に真木悠介名で書いた著作に『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房)がある。カルロス・カスタネダの著作を素材にしながら、(現代を含む)近代をのりこえてゆく方向性に、<人間の生きかた>を発掘してゆくことを企図して書かれた本である。
ミニマリストとなって、ぼくは基本的に書籍は「電子書籍」で読むようになった。けれども、見田宗介=真木悠介の主要な著作群はいまでも紙の書籍を手放さないでいる。ちなみに『気流の鳴る音 交響するコミューン』は電子書籍化されて、いつでも、どこにいても手にいれることができる。でも、ぼくの人生をたしかに導いてくれた本であり、また「導いてくれた」というように、ぼくにとっての「過去」になったわけではなく、いまも引き続き、さまざまな仕方でぼくを触発してくれる本であるから、どの国・地域にいこうとも、ぼくと共に在る本だ。
『気流の鳴る音』をひらいて、いつものようにページを繰りながら、そのときそのときに「引っかかる」箇所に、ぼくの眼は降りたってゆく。今回のブログでは、そのなかで改めて考えさせられた箇所を挙げたい。
真木悠介は、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)のエッセイから、つぎの箇所を引用している。
「多くのアメリカ・インディアンの文化においては、その社会の一員は、かならずいちどは、その社会の外へ出なくてはならないことになっている。ーーー人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ、一生にすくなくとも一度は。彼がこの幻をもとめる孤独な旅からかえってくるとき、秘密の名まえと守護してくれる動物の霊と、秘密の歌をもっている。それが彼の『力』なのだ。文化は他界をおとずれてきたこの男に名誉をあたえる。」
* Gary Snyder, Earth House Hold, 1957. 片桐ユズル訳『地球の家を保つには』社会思想社、1975年、190ページ。
なお、「引用」については、引用の引用はなるべくなら避けたい。原典にもどることが原則だけれど、ここでは引用の引用で挙げさせていただくことにする。それにしても、「引用」は実は奥の深い方法である。引用は読む側としては容易に見えて、書く側としてはけっこう難しい。引用の仕方・方法や効用だけでも、大きなトピックである。
なにはともあれ、ゲーリー・スナイダーが他の著作でピューリッツァー賞を受賞した年(1975年)に発刊された翻訳版『地球の家を保つには』から、上に挙げた箇所を引用している。もちろん、これまでも幾度となく読んできた箇所だけれど、今回読み返していて、いっそう、ぼくを揺さぶったところである。
社会の一員が、生きているうちにすくなくとも一度は<社会の外へ出る>という方法をそのうちに装填してきた文化を、ただただすごいと思う。それぞれに孤独な旅からかえっきたときに、その旅で手に入れた『力』を、その内的な力としてゆく文化。
そのことを考えながら、はたして、日本の文化はどうだろうかと思う。すくなくとも現代の日本ではそうはなっていないように感じられる。ここでは歴史社会的な観点を含めての考察は「課題」として残しておいて、いずれ「少し長めの文章」で書こうと思う。
でも、ぼく自身の経験からひとつ言えるのは、ひとつの文化にあっては、ぼくはそうあって欲しいと思う。一度はすくなくとも<社会の外へ出る>ことを触発しあい、それぞれの孤独な旅で得たそれぞれの「力」を、内的な力としてゆく文化。
養老孟司先生の「参勤交代」(半年ごとに都会と田舎を行き来するアイデア)もおもしろいし、ぼくも望むところだけれど、一度は「人間の網の目の外へ、『自分の頭』の外へ」出ることを装填する文化をつくりあげてゆくことは、またおもしろいものだと思う。