「共生」ということばがある。共に生きる。一緒に生活する。その意味合いにおいて間違いがあるわけではないけれど、ぼくはどこかこのことばが苦手であった。「教育くさい」もの、おさえつけられるような倫理的抑制を感じたのだ。
「きょうせい」という響きがいけないのかもしれないと思ったりもする。それは「強制」にもなるし、「矯正」にもなる。「きょうせい」と発音した途端に、「共生/強制/矯正」が一緒くたになってぼくのイメージに想起される。
「共生」が語られる場、だれによって、どのように語られるのかにもよってくる。でも、ぼくが見聞きするとき、それはどこか、「抑えつける」ように、ぼくは感受してしまったのだと思う。
「共生」ということばの語られない前提として、「共に生きる」ことの困難、があるように感じてしまうことも理由のひとつだ。共生の困難性。共に生きることが難しいから「共生」しなければいけない。そんなふうに、語られない前提を瞬時にして聞き取りながら、「共生」をとらえてしまうのだ。
共に生きることが難しい。たしかに、難しい。ひとであろうと、動物であろうと、自然であろうと、共に生きることが難しいと思ってしまう事象に、ニュースは満ち溢れている。社会は「競争」に満ちている。人間関係がくずれ、自然は圧倒的な規模で破壊されつづけている。
あるいは、じっさいにじぶんが生きてゆくなかで「難しい」状況に幾度となく直面してしまう。
でも、ぼくは思う。共に生きることは第一義的に「難しい」のだろうか。生きることは生を賭すほどの競争を前提にしているのだろうか。ひととひとの「相剋」が世界のありようなのだろうか。そうではない、と思う。
社会学者の見田宗介先生は、相剋だけでなく「相乗」に光をあてる。この世界にいっぱいに充ちている「相乗」の契機。ひととひと、それから異種の動植物たちのあいだにたしかに存在する相乗性。たとえば、顕花植物と昆虫のあいだには「競争」ではなく相乗的な生が生きられている。
見田宗介先生は、これからの社会における原則を、<共存>ということばで表現している。共に在る・存すること。そこには、おそらく、「ただ他者と共に在ること」の奇跡と本源的なニーズが織りこめられている。
「これからの」生きかたを生きてゆく方向性に描かれる「社会」は、見田宗介先生のことばを借りれば、「永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)」としての社会である。物質的(マテリアル)な「成長」の強迫から解き放たれた社会であり、個人の生きかたである。
「グローバリゼーション」という空間的なひろがり(また限界)と「人生100年」という個人の生の時間的な可能性がひらかれる社会では、空間的な拡大と時間的可能性の拡大にかかわらず、(物質的な)「経済成長」という上昇ではなく安定平衡という高原がつくられる。
もちろん、高原(プラトー)が自然のなりゆきとしてつくられるのではなく、現在の物質的な成長による環境破壊と資源の枯渇、さらには後進産業地域の貧困などをのりこえながら、人間(ひとりひとり)がつくってゆくものとしての「永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)」である。
そこでは、「<共存することの祝福>ともいうべきものを基軸とする世界」がひらかれてゆく。個人ひとりひとりの生きかたも、この<共存することの祝福>を基軸とする生きかたである。ただ家族や友人たちと在ること、共に在る自然と交感すること。それらは、だれもが「経験している」なんでもないことだけれど、それらはひとを収奪するのでもなく、自然を現在のような仕方で破壊するものでもない世界であり、生きかたである。