昨日(3月8日)は「国際女性デー」であった。女性の平等な社会参加などがどこまで進展したか、どこに制約や障害があるのか、ということをかんがえる。
社会における「女性」というテーマは、後進産業地域(発展途上国)の開発協力・国際協力という領域において、ぼくはより身近に接してきた。開発学(development studies)においてそれは重要なテーマであるし、またじっさいにシエラレオネや東ティモールで国際協力のプロジェクトをおしすすめてゆくにあたっては「女性の参加」ということを、とても大切なものとしてあつかってきた。それは欠くことのできない側面として、国際協力のコミュニティ(NGO・NPO、政府機関、国際機関など)では共有されてもいた。
ところで、ぼくは小さいころ、女性の地位や社会参加などがもとめられている社会状況そのものをよく理解できていなかった。学校の教科書などでは、自由や平等などが説明され、そのような理念があるにもかかわらず、どうもうまくいっていない。教わることと現実の乖離のはざまで、どうにも居心地のわるさを感じざるを得なかったように思う。「男」として生まれてきて、そのことにどこか負い目のようなものを感じたこともあった。
そんななかで、まずはじぶんからできることをしてゆく、というように、ぼくはじぶんの思考と行動を方向づけていったのだろう。だから、開発協力・国際協力という領域で学び、仕事をしてゆくなかでは「女性の権利や参加」というテーマには、すーっと入ってゆくことができたのかもしれない。
教わることと現実のギャップに感じていた「どうにも居心地のわるさ」は、歴史などを学ぶなかで「理想と現実」の図式などをとりこんで理解し、なんとなくそのままになっていた。でも、理想と現実のギャップが徐々にではあるけれど現実のなかでその幅をせばめてゆくなかで、見田宗介先生(社会学者)の文章に出逢い、ぼくは目が見開かれる思いをしたのであった。
ウェーバーの見るように「近代」の原理は「合理性」であり、近代とはこの「合理性」が、社会のあらゆる領域に貫徹する社会であった。他方、近代の「理念」は自由と平等である。現実の近代社会をその基底において支えた「近代家父長制家族」とは、この近代の現実の原則であった生産主義的な生の手段化=「合理化」によって、近代の「理念」であった自由と平等を封印する形態であった…。
「高度経済成長」の成就とこの生産主義的な「生の手段化」=「合理化」の圧力の解除とともにこの「封印」は解凍し、「平等」を求める女性たちの声、「自由」を求める青年たちの声の前に、<近代家父長制家族>とこれに連動するモラルとシステムの全体が音を立てての解体を開始している。見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集 I』岩波書店
この箇所は、見田宗介著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)でもとりあげられている(一般の読者が手に取りやすい岩波新書である)。
そこで書かれている図式で言えば、「<自由><平等>対<合理性>」である。近代は経済成長のために<合理性>を最優先にし、「近代家父長制」を敷いたのであった。そこで、<自由>と<平等>は封印される。けれども、経済成長が達成され、合理化の圧力が減圧されてゆくなかで、近代の理念でありつづけてきた<自由>と<平等>がちからづよく現れてくる。
小さいころ、ぼくが感じていた違和感のようなものも、この論理によって音を立てての解体を経験したようであった。なるほど、合理化の圧力の解除とともに現れてきたのは、「いまを生きる」ということである。「合理化」=生産主義的な「生の手段化」とは、「いま」を押し殺し「将来」のために「いま」を手段化することである(将来のための勉強など)。「いまを生きる」ということが、さまざまな仕方で試されているのが「現代」であり、そのような試みを、ぼくたちはいろいろなところで見聞きすることができる。
ところで、「女性」という問題の立て方は、「男性」を前提する。この社会のなかで女性が解き放たれるには、男性が解き放たれることも双対のものとして並行しなければならない。さらには、LGBTの方々も加わる。女性も、男性も、LGBTの方々もひととして平等で、<みんな同じ>という言い方もできる。けれども、見田宗介先生が語るように、<みんなが違う>という方向性にぼくは惹かれる。差別をのりこえる方向として、<みんなが違う>という方向に、ぼくたちはゆくことができる。