「言葉のお守り」としての(社会で流通する)進化論。- 鶴見俊輔と吉川浩満に教えられて。 / by Jun Nakajima


吉川浩満の著作『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』は、とてもスリリングな本だ。

社会で流通する「進化論」は、ダーウィンの名前のもとに「非ダーウィン的な進化論」である発展的進化論であることを、明晰に語っている。

グローバル化の中での価値観の同一性、また「次なる時代」をみすえてゆく中で、この認識は大切であると思い、このことをぼくはブログに書いた。

 

この著作と吉川の文章について、もう少し書いておきたい。

吉川の文章の特徴は、理論の明晰性と共に、さまざまな知性たちがさまざまな仕方(時に興味深い仕方)で、登場してくることだ。

それぞれの登場ごとに、ぼくは好奇心と共にとても気になってしまい、立ち止まっては「登場人物たち」の著作や来歴などを調べるから、なかなか本の先に進んでいかなくなってしまうのだ。

ほんとうに良い本というのは、その本におさまらないような遠心力をかねそなえている。

 

数々の「登場人物」の中で、社会で流通する「進化論」を読み解く際に、吉川は思想家の鶴見俊輔の力をかりている。

鶴見俊輔が1946年に雑誌『思想の科学』に書いた論文「言葉のお守り的使用法について」で展開された言葉の使用法(分類)を使って、進化論への誤解を読み解いていくのだ。

ぼくはこの論文そのものは読んでいないけれども、ここでは、吉川による紹介と読解、それから誤解された進化論への適用から、学んでおきたい。

 

鶴見俊輔は、ぼくたちが使う言葉を、まず大きく二つに分ける。

吉川の説明を参考にまとめると、下記のようになる。

● 主張的な言葉:実験や論理によって真偽を検証できるような内容を述べる場合。真偽を検証できる主張。(例:「あのお店のランチは1000円だ」「二かける二は四である」)

● 表現的な言葉:言葉を使う人のある状態の結果として述べられ、呼びかけられる相手になんらかの影響を及ぼすような役目を果たす場合。感情や要望の表現。(例:「おいっ!」「好きです」)

この二つの言葉の分類をもとにしながら、次のようなケースがあることに注意を向ける。

■ 実質的には表現的(感情や要望の表現)であるのに、かたちだけは主張的(真偽を検証できる主張)に見えるケース

鶴見俊輔は、このような言葉を「ニセ主張的命題」と呼んでいる。

「ニセ主張的命題」の言葉は、その意味内容がはっきりしないままに使われることが多いのだと、鶴見は注意をうながすのだ。

そして、この「ニセ主張的命題」により、「言葉のお守り的使用法」が可能になるという。

鶴見俊輔は、次のように述べている。

 

人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事にかぶせたりする。

鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」『思想の科学』創刊号(*吉川浩満の前掲書より引用)

 

吉川浩満は、鶴見のこの考え方を「眼鏡」として、社会で流通する進化論の言葉たちを見渡してみる。

そうすると、テレビやネットや本や雑誌や広告などで語られる「進化論」の言葉は、この「ニセ主張的命題」そのものだと考えられることになる。

 

…それらは見かけ的には主張的な言葉(真偽を検証できる主張)の体裁をとっている。なぜならそれらの言葉は、実験や観察や論理によって真偽を検証できる科学理論(進化論)に由来するものだからだ。でも実際に自らの発言を科学的に検証する者など誰もいない。じゃあなにをしているのかといえば、すでに起こってしまった事象にたいして慨嘆したり、将来にたいして希望的あるいは悲観的な感想を述べたり、商品の優れた点を宣伝したり、自分や他人を鼓舞奨励あるいは意気消沈させるために、こうした言葉を発しているのである。それらは実質的には表現的な言葉(感情や要望の表現)であり、一種の「生活感情の表現」あるいは「人生にたいする態度の表現」(©︎ルドルフ・カルナップ)なのである。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

進化論を「ニセ主張的命題」として使用するのはなぜかと、吉川は続けて書いている。

 

 どうしてそんなことをするのか。鶴見の言葉に沿っていえば、それはもちろん、進化論的世界像がみんなに「正統と認められている価値体系」であるからであり、自然淘汰説がそれを「代表する言葉」であるからであり、それを用いることによって「自分の社会的・政治的立場をまもる」ことができそうに思えるからだ。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

それが「言葉のお守り的使用法」である。

進化論に限らず、ぼくたちはいろいろな場面で、便利に使ってしまっている方法だ。

ここで議論をとめることはせずに、吉川は、さらに奥深くに向けて、言葉を紡いでいる。

それにしても、「言葉のお守り的使用法」という言葉の使われ方は、意識されないままで、実にこわいものである。

「言葉」をあなどってはいけない。

ぼくたちの「世界」は、言葉によってつくられるものでもある。

世界は「言葉のお守り」が至るところに貼られている。

鶴見俊輔と吉川浩満に、ぼくは教えられた。